2020
【資料】飛騨高山匠の技探訪「飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ」
■ 本資料について
本資料は、高山市教育委員会をはじめ、多くの機関のご協力のもとに、岐阜女子大学デジタルアーカイブ専攻並びに岐阜女子大学大学院デジタルアーカイブ専攻と共同でデジタルアーカイブした飛騨高山匠の技に関する地域資料79,166点を基に作成いたしました。
これらに資料は、Webサイト並びにデータベースを構築し、また元データは、オプティカルディスク・アーカイブとして保存管理しています。
オプティカルディスク・アーカイブは、デジタルデータの長期保存(アーカイブ)を目的とした、大容量光ディスクストレージシステムで、保存寿命100年以上といわれています。
■ 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブとは
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブは、文部科学省の私立大学研究ブランディング事業において収集・管理されている飛騨高山匠の技に関する地域資料である79,166点のデータの一部を提供しているWebサイトです。
本事業は、地域に根差し地域社会に貢献する大学として、本学独自で育んできたデジタルアーカイブ研究を活用し、地域資源のデジタルアーカイブ化とその展開によって、伝統文化産業の活性化などの地域課題の実践的な解決や新しい文化を創造できる人材育成を行い、地域の知の拠点となる大学を目指す目的で作成したものです。
表紙
目次
第1章 飛騨高山匠の技遺産
Contents1 両面宿儺・・・・・・・・ 6
Contents2 桜山八幡宮・・・・・・・ 6
Contents3 月ヶ瀬 飛騨の匠碑・・・ 7
Contents4 飛鳥大仏・・・・・・・・ 7
Contents5 法隆寺・・・・・・・・・ 8
Contents6 寿楽寺・・・・・・・・・ 8
Contents7 飛騨町・・・・・・・・・ 9
Contents8 平城京・・・・・・・・・ 9
Contents9 唐招提寺 講堂・・・・・ 10
Contents10 朱雀門・・・・・・・・・ 10
Contents11 大極殿・・・・・・・・・ 11
Contents12 西隆寺・・・・・・・・・ 11
Contents13 西大寺・・・・・・・・・ 12
Contents14 飛騨国分寺・・・・・・・ 12
Contents15 飛騨国分尼寺・・・・・・ 13
Contents16 飛騨支路・・・・・・・・ 13
Contents17 飛騨一宮水無神社・・・・ 14
Contents18 阿多由太神社・・・・・・ 14
Contents19 小萱の薬師堂・・・・・・ 15
Contents20 荒城神社・・・・・・・・ 15
Contents21 安国寺経蔵・・・・・・・ 16
Contents22 熊野神社・・・・・・・・ 16
Contents23 飛騨匠神社・・・・・・・ 17
Contents24 千鳥格子御堂・・・・・・ 17
Contents25 高山陣屋・・・・・・・・ 18
Contents26 春の高山祭 山王祭 ・・・ 18
Contents27 秋の高山祭 八幡祭 ・・・ 19
Contents28 飛騨春慶塗・・・・・・・ 19
Contents29 一位一刀彫・・・・・・・ 20
Contents30 高山市三町伝統的建造物群保存地区 20
Contents31 高山市下二之町・大新町伝統的建造物群保存地区 21
Contents32 吉島家・日下部家住宅・・ 21
Contents33 飛騨木工家具・・・・・・ 22
資料1 デジタルサイネージへの展開 22
第2章 左甚五郎遺産
Contents1 根来寺・・・・・・・・・ 24
Contents2 北野天満宮・・・・・・・ 24
Contents3 豊国神社・・・・・・・・ 25
Contents4 手力雄神社・・・・・・・ 25
Contents5 瑞巌寺・・・・・・・・・ 26
Contents6 浮島観音堂・・・・・・・ 26
Contents7 願成院本堂(愛染堂) ・ 27
Contents8 飛騨一宮水無神社・・・・ 27
Contents9 鳥追観音(如法寺) ・・ 28
Contents10 北口本宮冨士浅間神社・・ 28
Contents11 酒列磯前神社・・・・・・ 29
Contents12 圓明寺・・・・・・・・・ 29
Contents13 西橋寺・・・・・・・・・ 30
Contents14 方広寺・・・・・・・・・ 30
Contents15 知恩院・・・・・・・・・ 31
Contents16 石清水八幡宮・・・・・・ 31
Contents17 誠照寺・・・・・・・・・ 32
Contents18 成相寺・・・・・・・・・ 32
Contents19 園城寺(三井寺) ・・・ 33
Contents20 米倉寺・・・・・・・・・ 33
Contents21 桃原寺・・・・・・・・・ 34
Contents22 長国寺・・・・・・・・・ 34
Contents23 誕生寺・・・・・・・・・ 35
Contents24 神野寺・・・・・・・・・ 35
Contents25 浄願寺・・・・・・・・・ 36
Contents26 書写山圓教寺・・・・・・ 36
Contents27 熊野速玉大社・・・・・・ 37
Contents28 紀州東照宮・・・・・・・ 37
Contents29 定光寺・・・・・・・・・ 38
Contents30 龍潭寺・・・・・・・・・ 38
Contents31 粉河寺・・・・・・・・・ 39
Contents32 安楽寺・・・・・・・・・ 39
Contents33 秩父神社・・・・・・・・ 40
Contents34 東福寺・・・・・・・・・ 40
Contents35 大門神社・・・・・・・・ 41
Contents36 国昌寺・・・・・・・・・ 41
Contents37 龍門寺・・・・・・・・・ 42
Contents38 出雲大社・・・・・・・・ 42
Contents39 日光東照宮・・・・・・・ 43
Contents40 上野東照宮・・・・・・・ 43
Contents41 久津八幡宮・・・・・・・ 44
Contents42 鶉田神社・・・・・・・・ 44
Contents43 加太春日神社・・・・・・ 45
資料2 オプティカルディスク・アーカイブ 45
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブについて 46
資料の説明
裏表紙
監修:久世均(岐阜女子大学)
編修・執筆:山田紗弥・若林 萌・山村菜摘(岐阜女子大学・デジタルアーカイブ専攻)
メタデータ
加太春日神社
加太春日神社の創建年代は明確ではないが、紀伊国造家旧記によると、神武天皇御東征の御代に、天道根命が神寳二種を奉じて加太浦に上陸、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 当地は海に面して漁業の盛んなところであるため、のちに航海安全と大漁を祈願する住吉神社を合祀したらしく、文保元年(一三一七年)六月二十九日付賀太庄住吉社への寄進状(向井家文書)が残されている。
当社の社名については、紀伊風土記によると日野左衛門藤原光福が地頭としてこの地を支配した嘉元年間(一三〇三~一三一七年)に、自分の祖先神である春日三神をあらたに祀り、総名として「春日社」と称したとあり、嘉吉2年(一四四二年)の記録に春日明神神事日記(向井家文書)がある。 紀伊名所図絵によると、社地はもと、現在地から東の山の中腹にあったが、天正年間(一五七三~一五九二年)に羽柴秀長の家臣で和歌山城代(当時、秀長は大和郡山に居城、大和、和泉、紀伊三国を領し、紀伊国は和歌山城代が支配)、桑山重晴によって現在地に遷したと記している。なお、棟札(重文)によって慶長元年(一五九六年)に大がかりな社殿の造作がなされたことも実証されている。
当神社は、明治時代まで神職はおかず、神社経営は宮座形式の当屋制によって運営されていた。そのため、神社には記録文書類は全く存在せず、他からの資料に頼らざるを得ないが、御神徳の篤い神社であることは、「紀伊国神名帳」に「正一位春日大神」と記されており、神格の高さを知ることが出来ると共に、役小角(飛鳥時代の山岳修業者で修験道の開祖者、役行者とも称す)が、友ヶ島を行場とし、当社を勧請して守護神とされた。そのため現在でも毎年四月、当社に聖護院門跡が大勢の山伏僧と共に参拝されていることからもわかる。 また、昭和五十六年、環境庁(現環境省)主催の第二十三回自然公園大会において、採火神社に指定され、聖火を献火すると共に、氏子有志による獅子舞が郷土芸能として披露された。
なお、加太春日神社の現在の社名は、太平洋戦争後、全国の神社が国家の保護を離れ、宗教法人による神社に切り替わったとき、用いられたものである。
現在の御社殿は、一間社流造、千鳥破風及び軒唐破風付き檜皮葺で、構造をはじめ木鼻、蟇股、手挟、欄間、脇障子などの彫刻が雄大、豪壮でよく桃山時代の特徴を表しているとして、昭和6年に国宝として指定され、戦後は国指定重要文化財として保存されている。
蟇股の向拝の彫刻は透彫で、中央は雲に龍、,裏は雲、向かって左は竹に虎、 裏は竹に椿、右は牡丹に唐獅子、裏は牡丹が彫られており、身舎の正面の中央には宝珠、左は恵比須、右は大黒天、東側は桐に鳳凰と迦陵頻伽、西側は貝類と波に蝦、後側の中央は水に若葉と筆、左右には桐と菊を配している。 手挟の東は牡丹に蓮、西は菊に枇杷など多くの彫刻で飾られているが、あまり人目につかない軒唐破風の付け根にも二匹の鯉が相対しているなど、あらゆる面に細心の気配りがうかがわれる。 迦陵頻伽は梵語で極楽鳥のことであるが、人頭鳥身で仏前を飾る華鬘にももちいられ、蟇股の飾りに取り入れられたのは類例がなく、また、西側に貝類と波に蝦など珍しい飾りを配するなど地域性も考慮した精密な構想の下に建立された華麗な極彩色の社殿であったが、明治初年の神仏分離の際、すべて剥ぎ取ってしまったと言うことである。
古老らに聞くと、国宝になる以前から左甚五郎の作った立派な社殿だからご利益があり、どの角でもよいからよいから担ぐと肩の凝りが治り、無病息災になると言い伝え、特に節分の日には大勢の人が、「どうのすみかたげよ」といいながら担いだものであるという。
#左甚五郎
資料集
123_332_加太春日神社
鶉田神社
宝亀二年創祀。天武天皇の第三皇子一品舎人親王の孫権中納言式部卿秀重、宝亀二年鶉の森を拓き、鶉の郷と名付け、郷内天王森に鎮守の祠を建て(素盞鳴尊を祀れり。弘安四年蒙古来寇の時、御祈願の為勅使参向あり。平定の後、皇室より大床安坐の狛犬を下賜せらるる。永禄年中織田信長、斉藤龍興征討の際戦勝祈願あり。斉藤滅亡の後紋所を寄進し、且つ社殿改築寄進あり。後光明天皇正保年中社殿炎上したれども、御神体及び大床安坐の狛犬のみ難を逃れたり。其の後加納藩主松平丹波守光重に於いて再建し、且つ社田旧高十石を寄進せらる。社殿の彫刻は左甚五郎の作なりと云ひ伝へ。精巧を極む。延享五年里正より寛延二年笠松郡代吉田忠倶より寄進の石灯籠今に存す。維新前旧高十八石を有せしが、町村政実施の際村有地となるたるも、字名神田と称し存在せしも、農地改革実施に伴ひ現在は全部民有に帰したり。従前は社家社僧ありしを、維新の後之を改め、更に古昔の郷名を採り社号を鶉田神社と称し明治六年一月笠松縣より郷社と定めらる。
#左甚五郎
資料集
122_331_鶉田神社
法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立
法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、三井(みい)という土地の名によって三井寺とも呼ばれています。
三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。
法輪寺の西北、歩いて3分の場所には、聖徳太子が掘られたという国史跡の井戸(「史跡 三井」)が遺されています
法輪寺の創建には2説が伝えられています。
ひとつは、推古30年(622)、聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)がその子・由義王(ゆぎおう)らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)。
もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。
昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西院伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明しています。
薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられます。
創建から江戸時代中期まで、当寺に関する史料は乏しいため、奈良時代の様子はほとんどわかりませんが、十一面観音菩薩立像・弥勒菩薩立像・地蔵菩薩立像・吉祥天立像・米俵毘沙門天立像など、平安時代の仏様を多く伝えることから、平安時代には寺勢はなお盛んであったようです。
延長6年(928)の『寺家縁起』には、当時の檀越が高橋朝臣であり、寺域は、東は法起寺堺、南は鹿田池の堤、北は氷室池の堤、西は板垣の峰を限ると伝えています。
鎌倉時代の様子は、金堂・講堂・塔・食堂等が建っていて「建立の様は法隆寺に似たり」と『聖徳太子伝私記』に記されていますが、『大乗院日記目録』には、南北朝時代の貞治6年(1367)正月三日に法輪寺が炎上したとあります。
室町時代末頃の『大和国夜麻郷三井寺妙見山法輪寺縁起』には、金堂・講堂・塔・中門・北門・鐘楼・鼓楼・経蔵・宝蔵・四面廻廊・僧房・温室等があり、塔の四面に塑像群を置くと伝えますが、上記の火災の記述から疑問視されています。
資料集
121_330_法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立
近江神宮
天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀された。
太平洋戦争の終戦後である神道指令が発令された1945年(昭和20年)12月15日のまさにその当日に、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。
例祭は大津宮に遷都された記念日の4月20日に勅使が参向して行われる。このほか主な祭典として、6月10日時の記念日の漏刻祭、7月7日(年により5日)の燃水祭、11月7日の御鎮座記念祭、12月1日(年により2日)の初穂講大祭、1月前半の日曜日のかるた祭(かるた開きの儀)などが行われる。また、日本古式弓馬術協会による武田流鎌倉派流鏑馬神事が11月3日に行われていたが、2015年(平成27年)から6月第1日曜日に変更された。
天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置した歴史から境内には各地の時計業者が寄進した日時計や漏刻などが設けてあり、時計館宝物館と近江時計眼鏡宝飾専門学校が境内に併設されている。
小倉百人一首 第1首目を詠んだ天智天皇
また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会・大学選手権大会なども 開催されるなど、百人一首・競技かるたとのかかわりが深い。競技かるたに取材した漫画・アニメ『ちはやふる』の舞台ともなった。
天智天皇の百人一首の歌の歌碑も設置され、柿本人麻呂・高市黒人の万葉歌碑、弘文天皇(大友皇子)の御製漢詩碑、芭蕉句碑、保田與重郎の歌碑など多くの歌碑・句碑が作られている。
資料集
120_329_大津京・近江神宮(飛騨匠の都造り)
飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂
単層入母屋造、銅板葺
四方廻縁
桁行12.4メートル
梁間8.66メートル
向拝3.33メートル
奈良時代当時、七重搭、金堂、仁王門などを備えた壮大な伽藍があったと伝わる。『類聚国史』に「弘仁十年(819)八月飛騨国国分寺災」とあるが、その後、近世まで記録がない。昭和29年(1954)、本堂の解体修理時に、建築様式と手法は室町時代中期以前、正面向拝と東側は桃山時代の修理であることがわかった。向拝等は金森氏が国分寺の再興を助けた際の大修理と考えられる。地下45センチメートルには、南北4間、東西7間の金堂と推定される建物の礎石が確認された。
建物の柱、垂木、構造材は太い。外陣の虹梁は絵様がなく、板蟇股の断面も逆バチ型で室町期の様式を示す。
昭和42年4月5日指定
高山市教育委員会
説明板より
国分寺八日市
岐阜県指定重要文化財(建造物)三重塔
屋根銅平板葺
桁行、梁間共4.24メートル
高さ22メートル
(礎石上端より宝珠上端まで)
天平13年(741)の詔勅により建立された塔も、弘仁10年(819)に炎上し、斎衡年中(854~857)に再建した。さらに応永年間(1394~1428)には兵火にかかったと伝えられる。その後再建されたが、戦国時代の金森氏が松倉城の三木氏を攻めた際に損傷し、元和元年(1615)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺大平釘図」に記録されている。
現在の塔は、寛政3年(1791)の大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財金800両と大工手間5,500人工をかけて、文政4年(1821)ようやく竣工を見たものである。棟梁は3代目水間相模であった。
昭和53年(1978)には、屋根の修理と自動火災報知設備、保護柵の設置を行なった。屋根は、建立当初柿葺であったが、大正11年(1922)に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年(1978)には銅平板葺となった。
飛騨では唯一の塔建築で、金剛界、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
昭和49年11月13日指定
高山市教育委員会
説明板より
関連資料
6-4-1 国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂
6-4-2 岐阜県指定重要文化財(建造物)三重塔
動画資料
資料集
119_328_飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
田中大秀翁
田中大秀翁は、安永6年(1777)8月、高山一之町の薬種商に生まれた。現在、下一之町鍋島茶舗になっている場所である。
幼少より学問に長じ、25歳の時、伊勢松阪の本居宣長に入門し国学を研究した。国学とは、江戸中期に興った復古主義的文学運動で、我国の民族精神の根元である古道を「古典」の中に追求しようとしたものである。大秀翁はたくさんの研究書を著し、当時の国学者番付では、最高位に位置付けられるほどの評価を得ている。代表著書は『竹取翁物語解』で、現在でもレベルの高い注釈書として学会に通用している。当時、大秀翁を慕って全国各地から入門者があり、多くの門弟を育てて郷土の教育文化に大きく貢献をした。
大秀翁の著述本や、手択本、古今珍籍名著本など1,516冊は、「荏野文庫」として岐阜県の文化財に指定されている。
リーフレットより
田中大秀の住居(生家)
<香木園跡>
叢桂園(そうけいえん)扁額は、2面とも江戸中期の著名な南画家池大雅の書。楷書額41.1×197.0㎝、行書額42.9×130.0㎝。
叢桂園はかつて高山下一之町田中家の家名とされた。伴蒿蹊宛書状のなかで大秀翁は次のように述べている。
いまカツラといえば楓(オカツラ)のことで、桂(メカツラ)ではない。タブ(クスノキ科)は寒国には育たないので、薮肉桂同類の俗称キョウの木を庭に植えたい。キョウは桂の訛(なまり)か、又は楿(国字)の音読か。古事記に湯津香木(ゆつかつら)とある。「叢桂園」をユツカツラゾノと読むか、「香木園」と書いてカツラゾノと読むことにしたい。
樹皮を乾燥させた肉桂(ニッキ)は健胃剤に、肉桂油は香料や医薬用に使用される。生薬屋にふさわしい家名と言えようか。
薬種商田中家は、高山でも有数の資産家であった。座敷も立派であったに違いない。寛政元年(1789)には巡見使比留間助左衛門、文政11年(1828)には代検見勘定方武島菅右衛門の宿所を引き受けている。
香木園跡は現在鍋島茶舗になっている。
<八幡宮桜山庭碑>
高山桜山八幡宮の社務所前にいまもささやかな庭園を眺めることができ、池畔に西面して小さな石碑が立っている。翁の父博道が当神社の神官として在職中、境内に造庭したその由来を大秀が記したもの。碑面高さ91.2㎝。
桜山は大町(下一之町)の田中家に程近く、鎮守の森でもあった。庭造りが趣味であった大秀翁実父博道は、八幡社境内に庭が欲しいと考え、しばしばここを訪れては独り酒を酌みながら、あれこれと工事を指図した。急ぐことでもなかったので、10余年をかけて享和2年(1802)秋ようやく小園が完成した。
翌3年夏杖を曳いてここに遊んだ父翁は、上機嫌で供の家僕に「手入れを怠らず、冬に備えよ」と命じた。その日を最後に翌日から父翁は病の床に伏し、6月18日、ついに帰らぬ人となった。71歳であった。大秀翁は時に27歳。
リーフレットより
田中大秀の住居
錦山神社の前を通って旧街道を進むと、やがて荏名(えな)神社がある。飛騨を代表する国学者・田中大秀が再興したといわれるこの地は、また大秀の住居でもあった。
大秀の功績はその代表的労作としての『竹取翁物語解』をはじめ『蜻蛉日記紀行解』、『土佐日記解』など多くの古典の注解を果たし、特に竹取は、今日でもその研究の基本となっていて高く評価されている。一方、富田礼彦(いやひこ)、山崎弘泰など多くの門弟を育て、維新前後の飛騨の文化的・精神的中心人物を生み出した。
『広辞苑』の中で、飛騨出身の人名を拾って目にとまるのは、この大秀と金森宗和の二人しかない。そのことをもって大秀の業績をはかるわけではないが、飛騨の歴史の中で全国に通用する第一級の文化人であったことは間違いない。
大秀は、本居宣長(もとおりのりなが)が死ぬ半年前に入門し、宣長の死後は、養子の本居大平(おおひら)について学んだ。紀文から大秀と改名したのもこの年で、盲目の長子・本居春庭(はるにわ)と二派に分かれた鈴門の中で、大平を師と選んだことになり、大平への傾斜の過程がうかがえる。松阪市の本居宣長記念館の加藤清太郎さんが「宣長に五百人以上の門弟があっても、その多くは和歌が上手になりたくて入った人で、国学をやろうとした弟子はきわめて少なかった」と語られるが、大秀は、そのきわめて少ない弟子の中に入るのであろう。同館には、大秀の『住吉物語校異』の稿本がある。
飛騨における大秀の活躍には目ざましいものがあったが、その業績の中には、時として正鵠(せいこう)を欠くのではと思われるものもある。たとえば荏名神社の再興について『紙魚(しみ)のやとり』で加藤歩蕭(かとうほしょう)は、
「延喜式(えんぎしき)飛騨八神の内、荏奈明神の社地むかしよりしる人なし、しかるを田中屋弥兵衛(おおひで)という人、江名子村いな桶といへるちいさき祠を荏奈明神なりとて、文化十一年(1814)新たに荏奈の神名を鋳たる神鏡を納め、文化十二年八月初て神事を行いける、古来より社地の詮議文明ならざるをいかなる証拠を見出したるや、もしくはおしはかりにて荏奈の社地なりといふにやしられず、御検地帳にもなければ宮地とは仕(つかまつり)がたき所なり・・・いな桶とはえな桶の転語なり、大むかしは胞(えな)を納る地にして所々にあり」
と記して、胞、つまり後産(あとざん)を捨てるところだったと言っている。このような敷衍(ふえん)の強引さは飛騨総社の再興にもとかくの論議を呼び、萩原町の浅水橋(あさんずばし)の地名考についても平瀬担斎と争っているし、車田の碑文の馬篭野(まこもの)の解釈にも無理が見られる。
偉大な郷土の先覚に何をつける気は毛頭ないが、学問上の功績とは別に、大秀の人間像には、ところどころ衒(てら)いがみえる。
大秀の歌の心に、宣長のめざした「もののあはれ」「歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也」という境地はやや乏しい。
小鳥幸夫『飛騨百景』市民時報社 昭和58年発行より
関連資料
6-2-1 田中大秀翁という人
6-2-2 田中大秀の住居 その1 (生家)
6-2-3 田中大秀の住居 その2
資料集
118_327_田中大秀の生家
山岡鉄舟(静岡の史跡)
補陀洛山鉄舟禅寺
鉄舟寺はもと久能寺といい、今の久能山にあって、およそ1,300年の昔、推古天皇の時、国主久能忠仁公によって創立せられ、奈良朝の初期行基菩薩が中興せられた。当時坊中360、衆徒1,500人もあり、豪盛を誇っていた。また嫌倉時代以後の貴重な文献、仏像、仏画、納経、什器等数々の宝物が今日まで寺に残されてある。
降って武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の険要に築城することとなり、天正3年(今から360年前)現在の場所に移されたのである。
後武田氏は滅ぼされたが徳川幕府も名刹久能寺を愛護し御朱印地を賜った。世が改まり明治御一新となるや、その混乱の中で長く栄えた久能寺も次第に散乱し、住職もない廃寺となってしまったのである。
幕末の俊傑山岡鉄舟はこれを惜しみ再興を発願して、仮本堂に今川貞山師を迎えて開山とし広く寄進を募ることにした。明治16年、鉄舟48歳の時である。ところが鉄舟は明治21年7月、53歳でこの世を去り鉄舟寺の完成を見ることができなかった。
清水の魚商芝野栄七翁は元来信仰の篤い人であったので鉄舟の意志をつぎ幾多の困難を乗り越えて、明治43年3月欽舟寺の完成を果たしたのである。
本堂前富士に向かって鉄舟居士の歌碑が建ち、「晴れてよし曇りてもよし不二の山もとの姿はかはらざりけり」と一しお趣をそえている。
奉納 社団法人 送電線建設技術研究会
清水市説明板より
次郎長ゆかりの史跡 壮士墓
ここは明治元年9月18日に清水港内で起きた内戦・咸臨丸事件の戦没者の墓地である。
新政府軍に切り殺され海上に投棄された幕府軍乗組員の遺体は、数日港内を漂い腐乱していた。「触れる者は同じ逆賊とみなす」という新政府軍の命令に誰もが手を出せず困惑する中、侠客清水次郎長は、お咎めを恐れず遺体を拾いあげこの地に埋葬した。
この次郎長の義挙に感銘した山岡鉄舟は「壮士墓」を揮毫して与えた。
敷地内には咸臨丸事件と戦没者のこと、そして次郎長の義侠心を後世に伝えるべく多くの顕彰碑が建っている。
清水市説明板より
関連資料
6-1-1 補陀洛山鉄舟禅寺由来
6-1-2 次郎長ゆかりの史跡 壮士墓
資料集
041_250_山岡鉄舟父母の墓
高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻
<立川和四郎の「五台山」の獅子彫刻>
春の高山祭の屋台「五台山」の獅子彫刻は、長野県諏訪(下諏訪町、諏訪市)の立川和四郎(たてかわわしろう)が彫った。天保8(1837)年、与鹿16歳の時である。組内では祭礼の日まで制作を秘密にしていて、高山の人は新しい彫り物を見て仰天したという。谷口与鹿は和四郎の躍動する獅子彫刻を見て、強く影響を受け、その後、高山祭屋台の名彫刻を数々生み出すことになる。
諏訪の和四郎は長野、愛知、静岡で寺社建築彫刻に活躍した大工で立川冨昌(とみまさ)と言った。初代立川和四郎(冨棟)は江戸の立川流に学び、諏訪に帰って諏訪大社などの建築彫刻に腕を振っている。冨昌はその後を継いだ二代目で、初代は獅子、龍などをテーマにしていたが、冨昌は鳥や植物にテーマを広げた。
天保時代の高山は、屋台が大体今日のような様式に改造された時代でもあり、各屋台組では次々に競うように改修が行なわれている。従って高山の工匠たちは、腕を振るって存分の仕事をすることができ、屋台建造の名工が求められた時代であった。
<谷口与鹿の屋台彫刻>
飛騨の名工、谷口与鹿(よろく)が25歳の時に手がけた秀作に、麒麟台(春の高山祭屋台)の彫刻「唐子群遊」がよく知られている。である。与鹿はこれを彫るとき、組内の有力者の家にこもって構想を練り、毎日、城山へ子どもと一緒に遊びに出かけ、その姿と動作を観察した。その間、少しも仕事に取りかかる気配がなかったので、組内(くみうち)の人は気をもんだという。
この柱間(はしらま)の彫刻は1枚のケヤキ板から、水を飲む鶴、動く鎖を付けた犬、籠の中の鶏、遊ぶ唐子などを彫り出した。近寄ってよく見ると、ケヤキの木目が非常にきれいである。木目の年輪の円形になるところを、ひざの頭辺りに持ってきたり、顔の頬にも木目の円が来るように工夫している。選りすぐった木目をこよなく愛した飛騨匠(ひだのたくみ)ならではの所業である。
また、籠の中の鶏はくりぬき彫りという手法で、耳かきのような特殊な刃物によって、多くの時間を費やして彫ったものである。彫った籠をかぶせたのではなく、どうやればこんな彫りができるものかと感心する。細かく均一に籠の網目を細く彫り抜き、中で鶏が餌をついばもうとしている。ケヤキの良材の木目を生かした名彫刻である。
与鹿は代々大工の家筋であった谷口家の中で、五兵衛延儔(のぶとし)の次男(郷土史研究者池之端甚衛の説では、孫という)として、文政5(1822)年に生まれ、幼名を与三次郎といった。延儔と共に、高山市西之一色町の飛騨東照宮の造営に従事し、その彫刻を担当した中川吉兵衛の教えを受けた。そして谷口一門が請け負った屋台の改修に、吉兵衛とともに腕を振るってゆくのである。
また、与鹿は、19歳の時には琴高台の波間の鯉を彫り、その後、恵比須台の手長・足長彫刻、麒麟台の彫刻などを完成したが、嘉永3(1850)年、文人画家の貫名海屋(ぬきなかいおく)を頼って京都に出てしまう。やがて伊丹の酒造家岡田家の食客となり、ここで家庭を持った。
神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)
徳川3代家光将軍時代、日光東照宮と共に大造営された社殿は、惜しくも火災にて焼失した。
現社殿は、11代家斉将軍時代・文化年間、幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜、最高の技術を駆使して造営されたもので、豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されている。殊にこの神部神社・浅間神社両社の大拝殿は、他に類のない特殊な重層楼閣造りで、世に「浅間(せんげん)造(づくり)」と称され、当神社の象徴的建造物である。
高さ81尺(約25メートル)もあり、外観は彩色絢爛。殿内は132畳で、天井には狩野栄信(ながのぶ)・寛信(ひろのぶ)の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が描かれている。
平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より
少彦名神社(重要文化財)
例祭日 1月8日
本社は、少彦名命を主神とし、他に神部神社末社14社の祭神を相殿とする。
もと神宮寺薬師社と称し、薬師12神を祀っていたが、維新後神仏分離に際し、臨済寺に遷され、現在は少彦名命をご祭神とする。社殿は入母屋造銅瓦葺、朱塗で、細部に彩色を施し、特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である。
古来境内社として、病気平癒の信仰がすこぶる篤く、御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある。
平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より
東雲神社「丸山東照宮」
東雲神社は、古くから「丸山の権現さん」として親しまれてきた「東照宫」である。創建は元(げん)和(な)8年(1622)と伝えられ、「駿国(すんこく)雑誌」や「安東村村誌」によれば、駿府城内にあった「東照宮」を現在地である府中浅間神社(現・浅間神社)の別当、惣(そう)持(じ)院(いん)境内に移したものと伝えられている。
惣持院は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となったが、「東照宫」は明治8年(1875)2月18日、村杜に列せられ、同33年(1900)、村内にあった八(や)雲(くも)神社を合祀し、「東雲神社」と改称した。
御祭神は「東照公 德川家康公」「速(はや)須佐(すさ)之男(のうの)命(みこと)」のほか、「天神社」「稲荷社」が祀られている。
宝物として、寛永20年(1643)に3代将軍家光公の武運長久と子孫繁栄を祈願して造られた「東照公御尊像」のほか、「慈(じ)性(しょう)親王(しんのう)筆東照宮額」「三十六歌仙額」「駿府城代武田越前守信村奉納釣灯籠」「備前長光作脇差」などがある。
「丸山」の地名は、家康公が大御所として験府城在城中の慶長年間、鷹狩のためにこの地を訪れ、その趣が京の円山に似ているとして名付けられたものである。
「駿府まちおこし」推進協議会
静岡市
説明板より
八千戈神社(重要文化財)
例祭日 10月15日
本境内社は、明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支(まりし)天(てん)を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後神仏分離に際し、金印木像は臨済寺に遷され、以後八千戈命をご祭神とする。
昭和5年(1930)5月29日、昭和天皇御親拝の折には、神部・浅間両社御修理中で、当社を仮殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行なわれた。
特に名工の誉高い立川和四郎富昌の彫物が、中国の24の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
現在では、武神として信仰され、一般に勝負事の祈願所として広く信仰を集めている。
平成5年9月
静岡浅間神社
説明板より
関連資料
5-3-1 高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻
5-3-2 神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)
5-3-3 少彦名神社(重要文化財)
5-3-4 東雲神社「丸山東照宮」
5-3-5 八千戈神社(重要文化財)
資料集
高山祭屋台の祖型となった山車
<田安門をくぐった江戸の屋台>
江戸の神田祭、山王祭は、かつて屋台が江戸城内に入って天覧の栄を受けた。その経路が分かっていて(次ページ図)、伸縮の仕組みがある屋台であった。この構造が高山の屋台に継承されていると考えられている。江戸型の山車は、現在、栃木市の山車「静御前」として残っている。
かつて、江戸で山車がくぐったという田安門は、国指定重要文化財(昭和36年(1961)6月7日指定)で、九段坂上にある。門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていた。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点であった。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来する。
門は元和6年(1620)に建築され、寛永13年(1636)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物である。
現存する石垣は戦災により崩れ、昭和40年(1965)の北の丸整備に合わせて修復されたものであるが、地上から2~3段分は江戸時代の原型を保っている。
<江戸型から高山型へ>
高山市文化財審議委員であった大野政雄は『高山の屋台の祖形について』(高山屋台保存会・昭和35年発行)の中で、「頑強な封建性はここでは全く見られない。もっとも、そう窮屈に考えなければならぬ特別な『いわく』がくっついているわけでもなかった……」と結んでいて、高山の屋台は江戸型の祖形を失っていると考えられている。
高山の屋台が江戸の屋台を移して、それを次々と替え、200年ほどの間に全く江戸型を捨て、他にない完全な高山型の屋台を作り上げた。これは高山の町に優秀な工人がいたこと、その工人に仕事をさせるだけの教養と財を持った裕福な町人がいたことが、今日の華麗な屋台を造り出したのであろう。
男山(石清水)八幡宮(鳩峰車の主題手本)
栃木・山車(江戸型屋台の山車が残る)
屋台会館
関連資料
5-2 高山祭屋台の祖型となった山車
資料集