デジタルアーカイブ
飛騨鰤
越中からのブリ
1,ぶりで年取りをする行事
高山では毎年、12月31日の大みそかの夜に「年取り」という行事をする。12月31日に一つ年を取るということを祝う行事である。昭和30年代までは、「数え年」で年齢を数え、生まれたその年にまず1歳、その年の12月31日に1つ年を取って2歳と数えた。12月30日に生まれた赤ちゃんは翌年1月1日には「数え」で2歳ということになった。12月31日に年を1つ取ったのである。それで12月31日には年を取る祝いを盛大に行い、その時に出世魚であるぶりをおいしく食べる。しかし、年取りでぶりを食べることができる家庭は少なく、多くは煮イカであった。高山の豪商の中には、年取りのぶりを食べる専用の皿を用意している家もあった。今のようにぶりを皆が食べるようになったのは、昭和40年代後半くらいからであろう。
年取りに、家族揃って脂の乗ったおいしいぶりを食べることは、1年の総決算と、新年を迎える一大行事であり、普段食べるぶりとは味が違っているのである。
ぶりは名前を変えるのだが、当歳ではツバエソ、フクラギ、二歳ではニマイズル(ガンド)、三歳ではコブリ、四歳ではアオブリ(70㎝程)、五歳以上をオオブリと富山ではいうそうだ。
2,ぶりが運ばれた越中街道
魚の消費地高山では、江戸時代から街道を開いて越中の塩や魚を輸入した。魚は塩干が中心で肥料にも使われたが、酢でしめた肴も高級仕出し料理で使われたといわれ、高山の豪商の家では池にカレイが泳いでいたという。
越中から富山へ通ずる道は飛騨に向けては「飛騨街道」、越中に向けては越中街道といった。この街道は、基本的に3本あって、宮川沿いに国府、古川、宮川、猪谷へと北進するのが「越中西街道」。国府の上広瀬から今村峠へと山地に入り、神岡の船津に入って橋を渡り、高原川の右岸を通るのが「越中東街道」。高原川を渡らずに左岸を通るのが「越中中街道」といった。年末の年取り用のぶりはこの越中街道を主に通って高山に運ばれている。
富山湾でとれたぶりは4匹ずつの塩鰤が入れられ、牛の背又は歩荷により高山まで運ばれた。
この越中東街道は文禄(1592~)~慶長(1596~)年間にかけては、飛騨への主要路であり、寛永16(1639)年からは加賀藩領としての街道に継続している。岩瀬浜の東岩瀬→東笹津→神通川右岸→船津→藤橋(渡)→朝浦→高山というコースである。
一方、寛永16年(1639)、富山藩が加賀藩から分藩したことにより、「富山藩コース」に「越中中街道」がなり、肴はこの中街道を通るようになってゆく。西岩瀬→富山→大久保→西笹津→西猪谷→蟹寺→谷村→茂住→船津→山田→巣山→八日町→高山というコースである。
この蟹寺(富山)から谷村(飛騨)へ渡るとき、籠の渡しを通るが、安藤広重は「六十余州名所図会」で版画に残している。また、猪谷の関所では、富山の魚商人が口役銀を払えず、念書を書いて帰りに払った商人もいた。口銭帳には役銭不足書上で通過している。12~160文であった。富山藩は魚方役所及び中野口、青柳口で発行した魚送り状をつけ、西猪谷関所で受け取り、改めて、魚問屋役所に送り返して魚の流通を確認している。
3,ぶりを集めた肴問屋の「川上」
江戸時代、ブリは高山の肴問屋を通じて美濃や信州に流通した。富山県の氷見港などでとれたブリは、「佐平鰤」、「かね松鰤」などと網持ち荷主の名で呼ばれ、越中街道を通って飛騨の問屋に入る。高山の問屋から、改めて出荷するときには「飛騨鰤」という名前に変わり、野麦峠を越えて信州へと旅をしていった。信州の人は、鰤が飛騨で獲れるものと思っている人もいたほどである。
越中に、江戸時代から飛騨へブリを送った網元魚屋がいて、この人たちが絵馬額を寄進している。この絵馬額は飛騨国藩主金森4代頼直の武運長久、病気平癒を祈願して寛文5年(1665)、越中肴屋連中らが山王宮に奉納したもの。これにより飛騨と越中、加賀との魚、物産交流を知ることができる。
絵馬額・奉懸絵馬 寛文五暦六月吉日敬白・越中肴屋三衛門ほか24名、同塗師屋仁右衛門、同針田屋治郎兵衛ほか1名、加州大工梅口四郎兵衛・小田原五兵衛
また、信州から飛騨鰤の買い付けに商人が来ている。直接市場で買うことができないので仲介を通したが、よい鰤が出るまで高山の宿に泊まり、それを松本、高遠へと運送した。宿帳に名前が記録されている。
年取り行事
飛騨では今でも大晦日に盛大な祝いをする。それは、年をとる祝いであり、帰省した兄弟や子息を加えて、家族水いらずで、厳かにとり行なう神聖な儀式である。皆、順に風呂へ入り、仏壇にまいり、それから一同席について今年の事を感謝し、また来年も良き年であらん事を祈る。
この行事の膳には、必ずブリが乗る。十二月中頃から氷見港に回遊してくる油の乗り切ったおいしいブリが、飛騨へ入ってくる。ブリは小さい頃にハマチ、フクラギといい、大きくなるごとに名前が変わってゆくという、出世縁起を託して食べた。ブリが買えない年には煮イカで代用し、子どもも大人と同じようにブリや煮イカを膳に乗せてもらった。
正月の朝は、ゾウニを食べるぐらいで、ごちそうを食べなかった。この年取り行事は全国的にまだまだ残っている。一日の始りは夜から始まるという日本古来の民俗や、正月三カ日の儒教の影響による若水迎え、雨戸を開けるのは家長が、とかの慣習を含んだ年中行事として、飛騨の「年取り」は特筆すべきものである。
関連資料
3-2-1 飛騨鰤
3-2-2 ぶりの年取り行事
資料集
105_314_越中からのブリ
桐生町万人講
桐生町1,456番地
昭和30年11月7日 高山市指定文化財
延宝3年(1675)、数万の餓死者をここに埋めたもので、万人坑と呼び、後万人講と書くようになった。元和元年(1681)、盲人色都が餓死者の供養塔を建てた。
笠のある大きな石塔は、水難除けの祈りを込めて、文化14年(1817)、法華寺日在が再建したもの。「南無三世諸仏」とある石塔は、寛政8年(1796)、小八賀郷大谷村荒川久治と雲龍寺存妙が大原騒動刑死者の霊を慰めるために建立した。
その他お六地蔵釈尼悪照の墓(通称悪女の墓)喚応是誰の墓もある。石塔の並んでいるすぐ下手付近が刑場であった。また、旧越中街道が万人講の前を通っている。
桐生町万人講史跡保存会
高山市教育委員会
説明板より
猪谷関跡(富山藩西猪谷関所跡)
神通峡には、越中と飛騨を結ぶ道は早くから交通路が開け、多くの旅人や荷物が行き交っていた。こうした動きを監視するために、番所が置かれ、江戸時代になると、神通川上流の西猪谷関所と東猪谷関所、室牧川上流の切詰関所などが富山藩及び加賀藩の関所として重要な役割を担っていた。
西猪谷関所は、天正14年(1586)頃から、明治4年(1871)までの約280年間置かれ、特に富山藩が立藩した寛永18年(1641)からは地元の橋本家と吉村家が代々番人を務め、人や物の監視などの国境の警備にあたっていた。
番人は関所内の建物で生活し、その建物には川手方へ14間、山手方へ38間の矢(や)来(らい)垣(がき)があり、番所には常時鉄砲2挺等が備えてあった。飛騨の大原騒動(特に安永2年・1773の騒動)、幕末のロシア船来航(文化2年・1805)、水戸で起こった天狗党の乱(元治元年・1864)など、物情騒然とした時には、相当数の侍が交代で国境を守っていた。
関所の通行については、出入りの時、原則として関所手形が必要であったが、近郷の村民には小さな焼印札が交付され、生活の便宜が図られていた。一方、物の移動については監視が厳しく、なかでも米や塩、魚類などの重要な品物には送り切手が必要であった。また、関所で税金として徴収する口役銀は、塩の場合、1斗につきわずか1分5厘程度であったことから、収益金は関所を維持する程度のものと推測される。
これらの記録は「橋本家文書」と呼ばれる古文書に残されている。
平成20年3月 富山県教育委員会
富山市教育委員会
説明板より
関連資料
3-1-1 桐生町万人講
3-1-2 猪谷関跡(富山藩西猪谷関所跡)
資料集
金閣寺・夕佳亭(宗和の茶室)
金閣寺
鹿苑寺は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録された。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、特に優れて普遍的価値を持っていることを国際的に認められたことになる。
鹿苑寺は、鎌倉時代に造られた貴族の別荘を、足利義満が応永4年(1397)に譲り受けて粋を尽くした別邸北山殿に造り替え、さらに義満の死後応永29年(1422)に、夢窓疎石を開山とする禅寺とされたことに始まる。その後衰微したが、江戸時代に金閣及び庭園の修理がなされた。
庭園は、衣笠山を借景に、既存の池にさまざまの名石を据え、池に向かって3層の豪華な舎利殿金閣を建て、山上に展望所を建てている。金閣は、屋根をこけら葺とし、第2・3層全面に金箔を押すという、北山文化の象徴となる華麗な建築で、義満の権威と王朝への憧れが示されている。なお、金閣は昭和25年(1950)に火災により焼失したが、昭和30年(1955)に復原的に再建された。
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
京都市
説明板より
茶席「夕佳亭」
金森飛騨守宗和侯の好みで、後水尾天皇献茶の聖跡。現代のものは明治7年(1874)の再建。中央床柱に南天の古木を用い、右手に萩の違い棚(萩の木の根の方と枝先とを交互に組み合わせて中央に鶯宿梅を配す)を設ける。古今の名席と言われる。茶室の手洗鉢は、義満公伝来。
北山 鹿苑寺
説明板より
古来宗和好みとして伝わり、明治初年に焼け、同8年(1875)に再建された。名は夕日に映える金閣が殊に佳いということから名付けられたという。上段の間は後水尾院来臨の折、増築したもの。
リーフレットより
銀閣寺
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれる。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘「東山殿」を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
九歳で家督を、十五歳で将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げた。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えている。
銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)という。京都の東に連なる山々は東山と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いている。この山なみは古来女性のやさしさにたとえられ、数々の歌にもうたわれ、人々に親しまれてきた。なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の八月十六日の夜に点火される送り火で知られている。銀閣寺はこの大文字山の麓にある。門前には哲学者西田幾多郎が思索の場として散策した哲学の道があり、桜や蛍の名所として散策路になっている。
このあたりは古くから歴史の中に現れたところで、白川の清流が流れており、流域には早くから人が住みつき、縄文遺跡や、奈良朝の北白川廃寺跡も発見されている。またこの一帯には、東に法然院、霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂など古くから寺院が営まれてきた。平安時代には、北山と同じく、天皇の御陵、火葬場があり、菩提を供養する寺院が多くあった。平安時代の中期に浄土寺が創建され、この浄土寺跡に東山殿が造営され後に慈照寺となるのである。
<臨済宗相国寺派>
相国寺は臨済宗相国寺派の禅寺。初祖達磨大師が中国に伝えた、いわゆる禅宗を起源とする一派で、日本に伝わったものは臨済宗をはじめ曹洞宗、黄檗宗などがある。
臨済宗は、正法とされる釈迦の正しい教えを受け継ぎ、宗祖臨済禅師をはじめ、禅を日本に伝来した祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師から今日にいたるまで、師から弟子へ連綿と伝法された一流の正法を教えとしている。そして本来備わる純粋な人間性を、坐禅を通して自覚し悟ることを宗旨とする宗派である。
宗祖である臨済禅師の言葉に「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」というのがある。人々に本来備わる、この一無位の真人を自覚することが臨済宗の宗旨である。
金閣寺、銀閣寺がともに相国寺の塔頭寺院であることは、あまり一般に知られていない。相国寺は室町幕府三代将軍 足利義満により創建され、金閣寺もほぼ時を同じくして義満により創建された。銀閣寺はその後年、同じく室町幕府八代将軍である足利義政により創建されている。足利歴代将軍が創建した禅宗寺院として、本山である相国寺の塔頭寺院となり、今に至る。
現在、相国寺の山外塔頭として相国寺僧侶が任期制をもって相国寺とともに金閣寺、銀閣寺の運営と後世への継承にあたっている。
関連資料
2-35-1 金閣寺
2-35-2 茶席「夕佳亭」
2-35-3 夕佳亭(京都金閣寺)
2-35-4 金閣寺・夕佳亭案内地図
2-35-5 銀閣寺
資料集
103_312_金閣寺・夕佳亭(宗和の茶室)
武野紹鴎から千利休、宗和へとつながる遺構
武野紹鷗
文亀2年(1502)~弘治元年(1555)
大和出身の茶人・豪商。のちに堺に移り住んだ。上洛して三条西実隆に和歌を十四屋宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許された。茶道においては、わび茶を好み、利休を初めとする多くの門人に大きな影響を与えた。
説明板より
南宗寺
南宗寺は、臨済宗大徳寺派の禅寺で、戦国時代、堺を支配した武将、三好長慶が父元長の霊を弔うため弘治3年(1557)に大林宗套を迎え、今日の宿院あたりに寺を開いた。その後大坂夏の陣(1615)にて他の寺院とともに焼失したが、当時の住職澤庵によって現在地に再建された。境内には茶道を完成させた千利休や師武(たけ)野(の)紹(じょう)鷗(おう)の供養塔などがある。また国名勝の枯山水(かれさんすい)の庭、八方睨(にら)みの龍の描かれた仏殿、山門・唐門は国の重要文化財に指定されている。
千利休と茶道
南宗寺には、利休一門とその師武野紹鷗の供養塔がある。利休の「茶禅一味」の精神基盤は大林宗套ら歴代の和尚のもとで禅の修行をし、確立されたと言われている。
境内の奥には、利休好みの茶室「実相庵(じっそうあん)」があり、師紹鷗遺愛の「六地蔵石燈籠」、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟(けさ)形(がたち)手水(ちょうず)鉢(ばち)」がある。
説明板より
宇治御茶師
宇治にあって碾茶の生産に携わっていた家を茶師と称していたが、江戸時代になって、将軍家御用をつとめる特定の家を御茶師と呼び、それが制度化された。
御茶師の人数は時期によりかなりの変動があったが、18世紀頃の記録では御物御壺を預かる上林家が茶頭取(代官家)に任じられその支配下で朝廷および将軍家直用の茶を調達する御物(ごもつ)御茶師11家、将軍が東照宮へ献上する袋茶を詰める御袋(おふくろ)御茶師9家、将軍家が一般に用いる茶を納入する御通(おとおり)御茶師13家が数えられ、それぞれが仲間を組織して、各々毎年2名ずつが交替でつとめる「年行事」を中心に茶壺道中に対応して茶の調達にあたり、相互扶助・独善的行為の阻止などにつとめた。これを「宇治茶師三仲ケ間」と言った。
茶師は自家の相続や将軍家の交替の際には、誓詞起請文や由緒書を提出して幕府の認可を受けなければならなかった。
茶師の身分支配は京都町奉行があたり、茶の納入に関しては幕府勘定奉行支配下にある上林家の指示を受けた。
また、宇治茶師の各家は、家格や幕府との取引の多寡にかかわりなく、諸国大名のお抱え茶師として御用達をつとめ、大名から扶持米(ふちまい)、その他の特権を与えられていた茶師も多かった。
明治維新に際して、幕府、諸大名という積年の顧客を失った茶師の痛手は大きく、茶業から離れるものが続出し、茶師仲ケ間の組織は瓦礫した。
説明板より
宇治上神社
宇治上神社は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録された。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、特に優れて普遍的価値を持っていることを国際的に認められたことになる。
宇治上神社の創建は古くさかのぼるが、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の崇敬を集めて、社殿が維持されてきた。
本殿は、正面1間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の覆屋で覆った特殊な形式となっている。建立年代については、蟇(かえる)股(また)の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築である。
また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿である。意匠的には切妻造の母屋(もや)の左右に庇(ひさし)をつけた形であり、屋根はその部分が縋(すがる)破風(はふ)となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられる。
神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、ここでは、拝殿が初めて建てられた頃の住宅建築の様式である寝殿造の軽快な手法が、鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられる。
本殿の後方は広大な森林が広がっており、こうした環境は緩衝地帯の一部となっている。
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
宇治市
説明板より
源三位頼政公の墓 宝篋印塔
平等院境内
源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられた。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残している。
治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追擊を受け、平等院境内にて自刃した(齢76歳)。
辞世
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける
説明板より
仁和寺 名勝 御室桜
御室桜は、遅咲きの桜として知られているが、その数約200本で、江戸初期にはすでに現在の場所に植えられていたようである。また江戸時代中期には観桜の名所としても知られており、丈が低く根元から枝を張る御室桜と、その満開の花を愛でる人々の風景が『都(みやこ)名所(めいしょ)図会(ずえ)』にも紹介されている。
大正13年(1924)、国の名勝に指定された。
※都名所図会=安永9年(1780)、秋里(あきさと)籬(り)島(とう)、竹原(たけはら)春(しゅん)朝(ちょう)斎(さい)により刊行された本。多数の挿絵が庶民の心を捉え人気となる。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 御影堂
建立/江戸初期 寛永年間(1624~1644)
本尊/弘法大師
真言宗の祖師である弘法大師空海、仁和寺開山寛(かん)平(ぴょう)法皇(ほうおう)、第2世性(しょう)信(しん)親王(しんのう)を安置する。
現在の御影堂は、慶長年間(1596~1615)造営の内(だい)裏(り)清(せい)涼(りょう)殿(でん)の一部を賜り、寛永年間(1624~1644)に再建されたもの。蔀(しとみ)戸(ど)の金具なども清涼殿のものを利用するが、檜(ひわ)皮(だ)葺(ぶき)を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂の印象を与えている。
※清涼殿=内裏の殿舎(でんしゃ)の一つであり、天皇の日常生活の居所。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 観音堂
建立/江戸初期 寛永18年(1641)~正保元年(1644)
本尊/千手観音菩薩
現在の建物は寛永18年から正保元年にかけて建立。
千手観音菩薩を本尊とし、脇(きょう)侍(じ)として不動明王・降(ごう)三(ざん)世(ぜ)明(みょう)王(おう)、そのまわりには二十八部衆を安置する。また須(しゅ)弥(み)壇(だん)の背後や壁面、柱などには、極彩色で仏・高僧が描かれる。
現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用される。
※須弥壇=本尊等の仏像を安置するために1段高く設けた場所。須(しゅ)弥(み)山(せん)に由来する。
仁和寺の説明板より
三千院
天台宗5箇室門跡の一つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東搭南谷に1堂を建立したのが起こり。
本堂往生極楽院(重要文化財)は、江戸時代に大修理を行なったが、内陣は、比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、25菩薩の来迎図を描いた船底天井は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(3体・重要文化財)が安置される。
大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する5氏の筆により飾られている。
京都市
説明板より
桂春院
慶長3年(1558)に美濃の豪族石(いし)河(こ)壹岐(いき)守(のかみ)貞政(さだまさ)が桂南(けいなん)和尚を講じて創建した妙心寺の塔頭の一つで、東海派に属している。
庭園は方丈の南、東及び前庭の三つに分かれる。方丈南庭は、北側の崖を躑躅(つつじ)の大刈り込みで蔽(おお)い、その下に東より椿、紅葉等を植え、庭石を七五三風に低地を利用した飛石本位のもので茶庭の観をそなえている。
茶室は草庵風の3畳の席で、藤村庸軒(ふじむらようけん)の好みと伝えている。宗和型の灯篭がある。
京都市
説明板より
関連資料
2-34-1 武野紹鷗
2-34-2 南宗寺
2-34-3 宇治御茶師
2-34-4 宇治上神社
2-34-5 源三位頼政公の墓 宝篋印塔
2-34-6 仁和寺 名勝 御室桜
2-34-7 仁和寺 重要文化財 御影堂
2-34-8 仁和寺 重要文化財 観音堂
2-34-9 三千院
2-34-10 桂春院
資料集
京都天寧寺(金森宗和の菩提寺)、宗和の茶室・真珠庵庭玉軒
天寧寺
山号は萬(ばん)松(しょう)山(ざん)と号し、曹洞宗に属する。
当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573~1592)に、天台宗松陰坊の遺跡と言われるこの地に移転されたと伝えられている。その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。
本堂には、仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。
境内墓地には、江戸時代の茶人として有名な金森宗和、剣道示現流の開祖と言われる善吉和尚らの墓がある。また、山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。
京都市
説明板より
京都市指定有形文化財 天寧寺 本堂・書院・表門
天(てん)寧(ねい)寺(じ)は曹洞宗の寺院である。境内の主要な建物は、天明8年(1788)の大火によって旧堂が類焼した後、19世紀前期から中期にかけて建てられた。
本堂は、文化7年(1810)に上棟された6間取りの大規模な建物である。正面に向拝(こうはい)を設け、前列3室を仕切らずに一つの空間とし、後列中央間に来迎(らいごう)柱(ばしら)を立てて置仏壇とするが、これは同じ禅宗の一派である臨済宗寺院の方丈建築とは異なる構成である。
書院は弘化2年(1845)の造営で、床の間・床脇、付書院を持つ15畳の上の間と、同じく15畳の下の間からなり、その周囲に入側縁をまわす。西北隅に1間四方の室が張り出すのが特徴である。
表門は安政4年(1857)建築の薬(やく)医(い)門(もん)で、構造や意匠に禅宗様の要素が見られる。
これらの建物は、江戸時代後期の伽藍の形態をよく伝えている。また市内においては数少ない曹洞宗の近世寺院建築として貴重である。
平成14年4月1日指定
京都市
説明板より
京都市登録天然記念物 天寧寺のカヤ
カヤは山林に散生する常緑高木である。社寺境内や沿道に植栽されることも多く、ヨーロッパでも公園や庭園によく配植される。材は碁盤に使われることで知られる。
このカヤは樹高16.2メートル、胸高の周囲は4.78メートルある。頂部には落雷のあとが、また幹の本堂側には天明8年(1788)の本堂火災時に受けたと思われる傷痕がみられる。
市内有数のカヤの大木として、昭和62年(1987)5月1日、京都市登録天然記念物とされた。
京都市
説明板より
庭玉軒(京都大徳寺塔頭真珠庵)
通遷院書院に接続した茶室で、入口の潜りは露地の中潜りに相当し、その中は1坪余りの内坪として屋根に覆われた内露地の機能を果たす。ここに雪国育ちの経験が生かされ、座敷は2畳台目と最小の規模である。
リーフレットより
真珠庵庭園
真珠庵は、大徳寺の塔頭で、一休禅師を開祖として、延徳3年(1491)堺の尾和宗臨によって、開創された。庭園(史跡・名勝)には、①方丈の東庭・南庭、②通僊院庭園があり、①の東庭は室町時代の作と伝え、石組の配列から「七五三」の庭と呼ばれている。②の通僊院に付属して茶室庭玉軒(国重文)があり、その露路は宗和の作庭とされ、茶庭の趣がある。
リーフレットより
関連資料
2-33-1 天寧寺
2-33-2 京都市指定有形文化財 天寧寺 本堂・書院・表門
2-33-3 京都市登録天然記念物 天寧寺のカヤ
2-33-4 庭玉軒(京都大徳寺塔頭真珠庵)
2-33-5 真珠庵庭園
天寧寺案内地図
資料集
101_310_京都天寧寺(金森宗和の菩提寺)、宗和の茶室・真珠庵庭玉軒
京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院)
龍源院
大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、大徳寺南派の本庵である。
文亀2年(1502)に大徳寺第72世住職・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠(はたけ)山(やま)義元(よしもと)が豊(ぶん)後(ご)(現在の大分県)の大友義長(おおともよしなが)らとともに創建した。
方丈、玄関、表(おもて)門(もん)(すべて重要文化財)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物と言われ、禅宗の典型的な形式を示している。
方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍(りょう)吟(ぎん)庭(てい)は、苔の上に三尊石が建つ須(しゅ)弥(み)山(せん)式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱(ほうらい)式の庭園、また、東の東(とう)滴(てき)壺(こ)は日本最小の石庭と言われ、1滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
このほか、庫裏(くり)の南側には聚楽第(じゅらくだい)の礎石を配した阿(あ)吽(うん)の石庭がある。
寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔(まき)絵(え)の碁盤、天正11年(1583)の銘がある種子島銃などを蔵している。
昭和前半頃、金龍院の墓地が龍源院に移されている。金龍院は明治時代に入ってから、廃寺となった。
京都市
説明板より
金龍院
(①は『越前大野城と金森長近』一八四~一八六頁より)
① 大徳寺塔頭金龍院墓所
金龍院は京都紫野大徳寺境内にあり、金森長近が菩提寺として建立したものである。寺内の西北はやや高き丘形となっている。この丘上に金森家本家代々の墓並びに奥方あるいは殉死者の墓もある。さらに金森家代々の将士にして戦士した者、及び敵軍戦死者の霊を祀った祭祀碑もある。
しかるに明治時代に至り、金龍院は廃寺となり、その寺地は京都市の切なる要望により入れられて今は京都市のものとなっている(今はテニスコート)。従って金森家代々の墓は、同じく大徳寺塔頭龍源院に移された。金龍院にあった時の墓の配列は右 図のようである。
○型は五輪塔、□型は棹石で大小は身分を示したものである。祭祀碑は金森家累代の将士にして戦死せるもの及び敵軍であった将士で戦没した霊を祀ったものである。
金森累世将校及敵軍抂霊祭祀碑
絶待英霊後二天地一而不レ凋、刹那三際、萬劫且暮、縄縄今不レ可レ名、蓋存樹風□、没著徽烈、古之道歟、百骸潰散之人、真性尚存、君臣義如之何其廃レ之、金森出雲源頼門知二其然一也、乃寄二銀百両一、以給二祭祀一、庶幾感レ霊慰レ神、而不レ辱二忠臣義子之分一乎、臣無二二心一天之制也、秉二国之均、四方
維断断無二他抜一、蹇蹇匪躬之故、抜レ奇夷レ難挙レ賢援レ能、不二以レ私汚レ義、不二以レ利傷行、絶耳分少惟和惟一、至二於白虹貫レ日大白□レ昻、其不レ可レ測之最也、失レ性心失レ真、認レ物為レ己、輪廻是中、自取二流転一、是以誑誘移レ俗、姦訛若レ風、重諾千金、銜レ感一劔、割レ慈忍レ愛、離レ邦去レ家、偶決二兵機一、骨肉棄二於塵埃之域一、落二奸計一、身首散二於刀斧之前一、不レ憑レ棺、葬不レ送レ野、滞魂難レ解、幽魄何依、非二仏如来一不レ足二以度レ之、□如ト大雲以二一味雨一潤中於人華上、各得レ成レ実、茲勒二堅珉一、有二辞於永世一、窮沢再流、顚
木重栄、可二坐而致一、是源頼門之志也、自二大永一至二宝暦一凡二百四十年、功二勲其家一者、奮二死其義一者、敵国之士授二首其手一者、及郡国戦跡三十六所、名状別具、
宝暦十一年秋九月 紫野金龍院第七世石峰宗柱記
祭祀碑
右祭祀碑は、金森本家第八世頼門が本家改易、のち第七世頼錦が、南部盛岡に配流中元祖長近以来代々愛敵の美徳を追悼し金百両をもって金龍院に建てたものである。
敵の亡霊を自家累世戦没将士と同一に祀る衷心は、我が国武門の精萃である。この建設は宝暦十一年(一七六一)で頼錦が南部に流された四年後である。もちろん頼門も流適の身であった。金森氏代々の領主が敵戦死者を味方戦没者と同様に悼み菩提を弔い、祭祀碑を建立せる心情は武門の亀鑑とすべきである。
龍源院
①沿革
京都紫野の臨済宗大徳寺の塔頭で、南派の法源地本院として、由緒の殊に深く、朱色の大徳寺山門の前に、厳然と位置している大徳寺中で最も古い寺である。
その名称も大徳寺の山号「龍寶山」の「龍」と、今日の臨済禅でただ一つのみ存続している松源一脈の「源」の両字よりなっている。
文亀二年(一五〇二)大徳寺の開祖、大灯国師より第八代の法孫である東溪宗牧禅師(時の後柏原天皇より特に仏恵大円禅師の号を賜わる。)を開祖として、能登(石川県)の領主であった畠山義元公、九州の都総督であった大友義長公(大友宗麟の祖父)らが創建した。
明治の初め頃、神仏分離によって現在大阪の住吉神社の内にあった往時の慈恩寺と、岐阜県高山城主金森長近公が大徳寺に創建した金龍院とを合併して、今日に至っている。
②建造物
方丈(重要文化財)
室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全に留めているただ一つのもので、我が国の建築史上、最も枢要な存在である。方丈の棟瓦は、附玄関、表門の棟瓦とともに、京都八坂神社楼門の棟瓦と同じ室町時代最古の様式のものである。一重入母屋造、檜皮ぶき。
附玄関(重要文化財、別に唐門ともいう)
方丈と同時代の建立で、我が国最古のもの、一重切妻造、檜皮ぶき。
表門(重要文化財)
方丈・附玄関とともに同時代の建立である。四脚門切妻造、檜皮ぶき。
庭園
方丈を中心として南庭、北庭、東の壺石庭、開祖堂前庭及び庫裡南軒先の各種庭園よりなっていて、見る者の自ら味わい、体得する真の「禅宗庭園」である。
竜吟庭
方丈の北庭、室町時代特有の三尊石組からなる須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は、洋々と果てしない大海原を表わし、石組が陸地を表わしている。
中央に高く突出する奇岩が須弥山で(註=仏説に、この世界は九つの山、八つの海からなっていて、その中心が須弥山)魏々として聳えたち、人間はもちろん、鳥も飛び交うことのできない、ただ一人として窺い知ることのできない、真実の自己本来の姿、誰もが本来そなえ持っている超絶対的な人格、悟りの極致を形容表現している。中央の須弥山石の前にある円い板石を遙拝石といい、この理想、目的に一歩でも前進し、近づこうという信心の表われである。
東滴壺
方丈の東にある有名な壺庭で、我が国では最も小さく、底知れぬ深渕に吸い込まれそうな感じのする、格調高い石庭である。
一双
「龍源院リーフレット」より引用
※龍源院 京都市北区紫野大徳寺町八十二
関連資料
2-32-1 龍源院
2-32-2 京都の墓地・金龍院
2-32-3 京都の墓地・龍源院
資料集
100_309_京都の金森氏菩提寺(大徳寺の塔頭龍源院)
日光東照宮ほか2件の金森寄進の灯篭
光東照宮、上野東照宮、亀戸東覚寺の燈籠
① 日光東照宮内・陽明門下方の中神庫前に金森重頼寄進の灯籠が並ぶ。
金森重頼寄進の灯籠の右に中神庫、左に上神庫がある。
金森重頼寄進の灯籠銘文
「元和三年丁巳・一六一七 東照宮 四月十七日 金森長門守 御寶前 源重頼」
② 上野の東照宮に、金森頼直寄進の燈籠が現存する。
上野東照宮境内 金森頼直(第四代)寄進灯籠銘文
「武州東山東照宮慶安四年石灯籠二基寶前四月十七日金森長門守源朝臣頼直」
③ 亀戸東覚寺に金森頼旹寄進の燈籠が現存する。上野の寛永寺から移された。
亀戸東覚寺所蔵の灯籠銘文
「厳有院殿延宝九年五月八日飛騨国主金森万助源頼時」
上野東照宮(国指定重要文化財)
台東区上野公園9番
藤堂高虎(1556~1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建と言われている。あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祀る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、第3代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
平成21年3月
台東区教育委員会
説明板より
関連資料
2-31-1 金森家寄進の灯篭
2-31-2 上野東照宮(国指定重要文化財)
資料集
江戸・芝の金森屋敷跡
太政官布達公園 日本で最も古い公園の一つ 芝公園
公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどに多くの庭園があった。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑にふれあえるレクリエーションの場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所などであった。
明治に時代が移り、新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治6年(1873)の太政官布達第16号により、公園が誕生した。その後、明治20年(1887)までに、江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81箇所の公園が指定された。
上野の寛永寺と共に江戸の名所だった増上寺を中心とした芝公園は、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に、明治6年(1873)に東京で最初の公園として指定された。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は1~25号地に区画されていた。現在も公園では号地のままで親しまれている。当初は増上寺の境内を含む広い公園であったが、戦後に新憲法が施行され、政教分離によって増上寺等の境内の部分が除かれ、現在の環状の公園になった。
東京都芝公園・説明板より
浄土宗 大本山 増上寺
沿革
浄土宗の七大本山の一つ。三縁山(さんえんざん)広(こう)度(ど)院(いん)増(ぞう)上(じょう)寺(じ)が正式の呼称である。
開山は明徳4年(1393)、浄土宗第8祖 酉(ゆう)誉(よ)聖(しょう)聡(そう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長3年(1598)に現在の地に移転した。
文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきた。
江戸時代初期、増上寺法主12世 源(げん)誉(よ)存(ぞん)応(のう)上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行った。
徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となった。
その大きさは、寺領10,000石余、20数万坪の境内地、山内寺院48宇、学寮100数十軒、常時3,000名の僧侶が修学する大寺院であった。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行なわれ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管している。
説明板より
徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいた。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいであった。
その後昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除された。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門(いぬきもん)」と言われ、文昭院殿霊廟(徳川家第6代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築した。
左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。
墓所には、第2代秀忠公・第6代家宣公・第7代家継公・第9代家重公・第12代家慶公・第14代家茂公の6人の将軍のほか、崇源院(第2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(第14代家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(第3代家光公側室、第5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び第3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。
説明板より
関連資料
2-30-1 太政官布達公園 日本で最も古い公園の一つ 芝公園
2-30-2 浄土宗 大本山 増上寺
2-30-3 徳川将軍家墓所
資料集
098_307_江戸・芝の金森屋敷跡
江戸・桜田門通りの金森屋敷跡
正保年中(1644~1647)の江戸城下図
東京の国立公文書館に江戸の城下絵図が何点かあり、その中に金森氏の屋敷が見られる。第Ⅰ期・桜田通りの金森屋敷、第Ⅱ期・桜田通りと芝の両方にあった金森屋敷、第Ⅲ期・芝の金森屋敷のみの種類がある。「金森出雲」は金森第2代可重か第3代重頼。「金森万之助」は第6代頼旹と思われる。
高山市教育委員会『高山市史・金森時代編』平成29年より
関連資料
2-29 江戸・桜田門通りの金森屋敷跡
資料集