2023
城郭-5 鍋山城
<県指定>昭和31年(1956)11月14日 <管理者>鍋山城跡史跡保存会
<員 数>城郭全体26.937ha <時 代>室町時代(16世紀)
鍋山の名称は、その山の形から起こった。城は三つの山にわたって構築され、大鍋山に主郭、小鍋山に二之郭、下鍋山に出郭があった。
<大鍋山>主郭 標高759mで、麓からの比高173m。中央に「奉敬鍋山権現」と刻んだ石碑があり、ここが本丸とされる。東側と北側に石垣が現存する。
<小鍋山>二之郭 標高746m。巨岩のそびえ立つ自然の要塞で、西南隅に石垣が現存する。この区域は、3段構成になっている。史跡指定の申請時には二之丸とされていた。現地の石柱は出丸の表示。
<下鍋山>出郭 標高720m。七夕岩に続く尾根の頂上に縦75m、横20mの長方形の平地がある。史跡指定の申請時には出丸とされていた。
鍋山城の築城については、室町時代の初頃とする説と、戦国時代すなわち天文年間(1532~1555)とする二つの考え方があるが、前の説を裏付ける証拠がないため、天文年間に三仏寺城から移った鍋山豊後守安室が築城したと一般に考えられている。安室は大八賀郷を領有していた小領主の1人で、鍋山へ移ってから山の名をとって、鍋山氏と称した。
ところが、安室が鍋山城を築いた頃、益田で強大になった三木氏が大野郡にも進出していた。畑佐城の山田氏、天神山城の高山外記は三木自綱に滅ぼされ、安室も三木氏に降り、自綱の弟顕綱を保身のために養子に迎えている。後に安室は顕綱に鍋山城を追い出され、鍋山城は三木氏の城になってしまった。
一方三木自綱は、さらに勢力を増して松倉城を築き、八日町(国府町)の合戦で北飛騨の江馬氏を滅ぼした。天正10年(1582)甲斐の武田氏と通謀したとして、鍋山城の顕綱を殺し、自分の次男秀綱を入れて、天正12年(1584)ほぼ飛騨全体を掌握した。
その頃の政局は、本能寺の変を経て、豊臣秀吉が天下を握ろうとしていたが、三木自綱は佐々氏と組んでこれに従わなかったため、秀吉の命を受けた金森氏の攻撃を受け、天正13年(1585)には滅びてしまった。
飛騨を与えられた金森氏は最初、鍋山城を居城とし、城下の建設にも着手したが、広い土地がなく、交通の便も悪くて城下町を営むのに向かないとして、数年で高山城を建設し、鍋山城は廃城になってしまった。
資料
⑦城郭-5 鍋山城
城郭-4 山下城(一之宮町)
山下城は天正5年(1577)飛騨一宮水無神社の神官、三木入道三澤が築いたという(『宮村史』)。三木三澤は、一宮坪の内(高山市一之宮町)に館を構えていたが、神社の安泰を図るために松倉城主三木自綱の妹と婚を結び、神職を家臣の森某に譲って自ら武門に入り、山下城に移ったという。天正13年(1585)に金森氏が飛騨に侵攻して三木氏が滅亡すると金森可重が山下城に入った。三木三澤は戦わずに逃亡したが、翌月再び蜂起し、その戦いで敗れて討死にした。
<概要>
山下城は、標高920mの尾根上に築かれている。主郭は、西側の尾根を2本の堀切で遮断している。主郭は平坦で、平たい石が並べられているが、城に関わる遺構ではなく、後世の遺構と思われる。
主郭より東に下ると尾根は二つに分かれている。東の尾根の曲輪②は、周囲に低いながらも明瞭な土塁を設けており、隅部は櫓台状を呈している。東南の尾根の曲輪③は、小規模な曲輪が下段にも続いている。山下城から麓に下る際は、尾根がいくつも分かれていて迷いやすい。
資料
⑦城郭-4 山下城(一之宮町)
城郭-3 畑佐城
高山市新宮町狐洞
畑佐城は新宮神社裏手の標高670mの山頂に立地し、上枝地区や、山田城を眺望できる見晴らしの良いところにある。地元では立(たて)壁城(かべのしろ)とも呼称される。
古くから文献などに記載が見られ、『飛州志』では「往古山田紀伊守其後川上縫殿介居之川上ハ天正十壬午年小島合戦ノ時戦死」、また『飛騨国中案内』では「是は城主三木氏城郭なれども其説山田紀伊守在城すと云う」とある。これらから戦国期に山田紀伊守、川上縫殿介が居城したと推測されるが、両者の詳細については明らかではない。一説には、川上縫殿介は江馬氏の家臣といわれている。
南西側から尾根を登る道が大手で、途中に2ヵ所の堀切と②曲輪が認められ、山頂の①-1主郭(本丸)に至る。①-1から北へ尾根上に①-2主郭(二之丸)が広がり、北側外郭に半月状の曲輪、東側には腰曲輪などが見られる。
①-2主郭(二之丸)から南東へ下る「旧赤坂道」と呼ばれる道があり、また、①-2から北方山麓鬼ヶ洞へ下る道が搦手道と考えられる。搦手道途中に「首切り場」と呼ばれる平地があり、「山田紀伊守」一族の処刑場跡との伝承が残る。
畑佐城跡は、中世の山城の性格を十分に備えた城郭であり、遺構の保存状態も良く、飛騨や、高山市の中世史を考える上で重要な城郭である。城跡は地元の新宮文化遺産保存会により大手、搦手などが維持、整備され、文化財めぐりウォークラリーのコースとしても市民に活用されている。
山田城はこの城から1.4㎞離れた場所にあり、標高630m、麓との比高40mで、頂上に小規模の平坦面がある。山田城城主の山田紀伊守は、白山三馬場の一つ、郡上長滝寺の代官だったと伝えられる。
平成9年5月21日 高山市指定史跡 約500×300mの範囲
尾根道、山腹古道 本丸周辺及び腰曲輪
二之丸周辺及び腰曲輪 堀切周辺及び帯曲輪
標高670m、比高70m
資料
⑦城郭-3 畑佐城
城郭-2 尾崎城(丹生川町)
尾崎城へは、高山市立丹生川中学校の裏側から南方向に遊歩道で登る。上り口西側の御(お)崎(さき)神社は地形上の尾根の先端にあたり、屋敷跡と推定される。
そこから100mほど東に登り詰めると二之丸といわれる郭に着き、さらに東へ進むと土橋を経て主郭に至る。
尾崎城は標高720mで、山頂の平坦部が広く、麓との比高が70mと低いことから屋形城といわれてきた。空堀を周囲にめぐらしその上部を土塁としている。平坦部は全長約280mあり、飛騨の城郭としては大きい。帯曲輪、畝状空堀群、土塁、横堀、土橋がある。
尾崎城は塩屋秋貞によって天文年間(1532~1555)に築かれたといわれていたが、発掘調査の結果、塩屋氏(16世紀)より100年以上古い時代の遺物が出土し、当初の築城年代が15世紀前半期とされている。
塩屋秋貞は飛騨半国の主と記され(『甲陽軍鑑』)、飛騨と越中の国境を越えて動いていた。秋貞に関する伝承は北に流れる宮川、神通川に沿って広く分布し、関係する城としては、臼本城(高山市塩屋町)、古川城(飛騨市古川町)、塩屋城(飛騨市宮川町)が考えられている。
また、富山県側は富山市大沢野町の猿倉城、岩木城、栂尾城、富山市大山(だいせん)町の津毛城が考えられている。『飛州志』には「塩屋筑前守居之来由未詳永禄天正ノ間ノ人也当城ト吉城郡蛤ノ城ニ居ス天正年中戦死」とある。
資料
⑦城郭-2 尾崎城(丹生川町)
城郭-1 三仏寺城 さんぶつじじょう
〈時代〉平安~戦国時代(12~16世紀)〈県指定〉昭和46年9月14日
〈員数〉城郭全体32,870㎡ 〈所在地〉三福寺町井之上他
〈所有者〉三福寺共有他 管理者・三福寺文化遺産保存会
三福寺集落の背後に位置し、北に向かって延びる城山(標高660メートル)の山頂に築かれた山城で、尾根に設けられた4ヵ所の平地が主要な遺構である。三福(みさき)神社のかなり東方から登る道が大手で、尾根に出てから右に登りつめた奥の平地が本丸跡であろう。平安時代の末に築かれ、飛騨では最も古い城跡である。保延、永治(1135~1142)の頃には●平時輔が飛騨の守としてこの城に在城した。●3代目の景則の頃から飛騨は平家の領国となった。●4代目景家は4人の子息と共に京へ上っていたが、治承五年(1181)、源義仲の軍に攻められ落城し、景家の室●阿紀伊の方と二子で城主景綱の●息女鶴の前は行方知れずとなった。義仲勢は飛騨の良馬を求めたといわれる。
弘安(1278~1288)のころには、地頭の左衛門尉●藤原朝高が、続いて畑六郎左衛門尉●藤原安高が在城したと伝える。
大永元年(1521)には、●三木直頼が在城し、天文16年(1547)、三木家臣●平野右衛門尉が入城したが、その子、安室(やすむろ)のとき鍋山城に転じ、直頼の男●三木直弘が入城した。永禄7年(1564)武田の武将山県三郎兵衛が飛騨へ討ち入り、直弘は城に火をかけ、桜洞の本城へ退いた。以後、三仏寺城は廃城になった。
飛騨守
1平時輔 ― 2時景 ― 3景則 ― 4景家 景高
― 景綱
*1時輔の代から在城 ― 景経
*3景則の頃飛騨は平家の領国 ― 景俊
*4景家京都に出ているとき、木曽義仲に攻められ落城
三仏寺城の下にある歓喜寺は、金森4代頼直が照蓮寺13世宣明の子治部卿(じぶきょう)のために建てた寺である。裏山に珍しい木地師の集団墓地がある。木地師の集団墓地は、ここと東山の宗猷寺の2ヶ所だけである。
資料
⑦城郭-1 三仏寺城
自然-8 猪臥山(飛騨市)
いぶしやま・1,518.8m
高山市清見町池本と飛騨市古川町畦畑(うねばた)にまたがる。
呼び名は、「いのぶせ」、「いのふせ」、「いぶせ」、「いぶし」と4つあり、昔、猪による被害などの関わりが、各集落ごとに深かったからと言う。国土地理院では「いのぶせ」、畦畑では「いぶし」と呼ばれる。
頂上のすぐ下の平地に「山の神」の社が祀られている。そこから数分で山頂に行ける。頂上からは360度の大展望が楽しめ、乗鞍岳、御嶽山と白山の秀峰、穂高岳などの飛騨山脈、北に望む飛越国境の山々が眺望できる。秋には飛騨市街地に朝霧が広がり、雲海の眺望が知られている。
登山
高山市清見町彦谷側からは卯(う)の花街道・猪臥山トンネルの手前750mの西側駐車場が登山口。飛騨市古川町畦畑側から小鳥峠を経て林道で登る道もあるが、林道工事関係者が通るので注意を要する。待避所が少ないので、すれ違い不可能の場合はかなりバックすることを覚悟しなければならない。
コース
彦谷側登山口―1時間10分―「1,350m中間点」―50分―「1,456m地点」―30分―猪臥山 ※東に回る周回コースがあって、展望台、無線塔、下り口、彦谷側登山口に戻る。
資料
⑥自然-8 猪臥山(飛騨市)
自然-7 高屹山(久々野町)
たかたわやま
1,303.1m
久々野の河川敷公園駐車場から林道を車で行くと、林道終点に6~7台の駐車スペースがある。登山道には、大きな右折れ岩、ゴジラの背、位山三山を一望できるお立ち岩などがある。木々に覆われた最後の急峻な道を登り詰めるとふれあい広場があり、一気に視野が広がる。山頂はここからほんの少し下って登った所。下山道は別ルートで、最初は急だが、後は安全で歩きやすい。
登山適期は高峰の残雪を望める5月から7月初旬。この時期の新緑も良い。日帰り登山が可能で、地元住民に愛されている里山である。山の名称の「たわ」とは、尾根の地形がたわんでいるという意がある。山頂からは、飛騨の山々はもちろん、飛騨山脈や白山が展望できる。
西方に位山三山と呼ばれている船山・川上岳・位山を一望できる。地図等では「たかたわやま」と表示されるが、地元では昔からなぜかこの山を「たかど」と呼んできた。
高屹山は、里からの眺望の山であり、道らしい道もなく、登山対象の山ではなかった。ある年、山に登って酒を楽しむ軽登山のグループが誕生した。彼らは高屹山に自分たちで登山道を作り、久々野の活性化につなげようと決めた。
登山道の完成までには、ルート調査、地主の許可など大変であったが、メンバーに山仕事の経験があったこともあり、着手から3年目に山頂に標柱を立て、無事完成した。登山専門誌などに紹介され、登山者が増えた。
コース 河川敷公園駐車場―徒歩で50分(車で林道終点まで行くこともできる)―林道終点登山口―20分―右折れ岩―30分―ゴジラの背―30分―ふれあい広場―3分―高屹山
資料
⑥自然-7 高屹山(久々野町)
自然-6 福地山(上宝町)
ふくちやま
1,671.7m
福地山は奥飛騨温泉郷福地温泉街から約2時間半で登れる里山である。福地山は化石の山でもある。層孔虫(そうこうちゅう)などの化石を道端で見ることができる。4億年の歴史をもつ地層からは、アンモナイトが発掘されておりこの地が太古には海があったことを物語っている。
地元温泉街の住民の細やかな整備のおかげで道は大変歩きやすく、子供でも登りやすい。山頂からの眺望は北アルプスが一望できる奥飛騨隋一の展望地となっており、紅葉が色づく時期や、残雪や雪の時期にかんじきを履いて登る県外からの登山客も多い。
登山道は平成16年(2004)に「飛騨北部トレッキングルート開発研究会」が地元福地温泉(高山市奥飛騨温泉郷)の有志の協力で整備した。温泉街にある「昔ばなしの里」横に登山者用駐車場、福地温泉朝市の山側に登山口がある。登山道幅が1.5~2mあって登りやすく、コースは整備されている。県内外の登山者が訪れ、トレッキングを楽しんでいる。
「無然平(むぜんだいら)」には、「飛騨の聖人」と呼ばれ、平湯での教員の傍ら、青年団を作り、幅広い社会活動をした教育者篠原無然の石像がある。そこには「篠原無然之像。福地山山荘跡。大正十年五月此処福地一之谷山へ入山。当山荘に山籠すること幾度。天地大自然を師と崇め、日夜修行に励まれた。」と記されている。
その「無然平」を少し登ると、細い尾根道と幅広い山腹道に分かれる。ダケカンバの生える山腹道は小型重機で敷設された一定勾配で赤土の歩道であるが、滑りやすく少々歩きにくい。左から回り込んだ尾根筋の第3展望台での眺めは、活火山焼岳が目前に見えて素晴らしい。ブナ、ネズコ、ミズナラ、チシマザサなどの植生を見ながら、第3展望台から一旦鞍部に下って、乗鞍展望台を過ぎると、まもなく標柱と三角点がある山頂に出る。
コース 登山口―30分―東屋―50分―無然平―35分―第3展望台―30分―福地山
資料
⑥自然-6 福地山(上宝町)
自然-5 丸黒山
丸黒山(まるくろやま・1,956.3m)
国立乗鞍青少年交流の家から丸黒山まで2時間20分(健脚の人)で登ることができる。ゆっくり登ると3時間近くかかり、アップダウンがかなりきつい。途中、日影平山の東側・岩井谷乗越を通り、枯松平休憩所を通過する。そこから20分ほど進むと「ガンバル坂」の急坂があり、さらに「根性坂」と続く。登山口ポストから2時間20分でようやく尾根に着き、あとは山頂まで20分ほどである。
丸黒山からは千町ヶ原に行くことができるがヤブコギで道は通りにくいという。丸黒山→千町ヶ原→乗鞍岳・高天ヶ原、剣ヶ峰へと通じ、千町ヶ原で高山市朝日町青屋からの道と合流する。
青少年交流の家の登山研修で集団登山がなされ、登山道は整備されている。
コース 青少年交流の家―1時間20分<岩井谷乗越>―枯松平休憩所―1時間<ガンバル坂、根性坂、尾根>―丸黒山
日影平山(ひかげだいらやま・1,595.3m)
昭和50年(1975)に設立された青年の家(現・国立乗鞍青少年交流の家)から登る道と、飛騨高山スキー場のリフト終点最頂部(かぶと山・1,545m)から尾根伝いに登る道があったが、整備されておらず、わかりにくい。青少年交流の家から丸黒山に登る登山道に入った方がわかりやすく、青少年交流の家裏側の登山道入口から30分ほどで着く。
山頂の眺望はないが、麓の日影平は「飛騨乗鞍高原」と呼ばれ、飛騨高山スキー場、トレッキングコースがある。スキー場リフトは東北東方向の青少年交流の家近くに上るものと、東南東方向の「かぶと山」に上るものがある。
コース 青少年交流の家―20分―日影峠―5分―日影平山
資料
⑥自然-5 丸黒山
自然-4 川上岳(かおれだけ・一之宮町)
川上と書いてカオレと読むのはまず難しい。飛騨では沢上をソウレという読みかたがある。川上岳は位山、船山とともに「位山三山」のひとつに呼ばれる。川上岳は三山の中でアクセスがしにくい点を除けば、飛騨一帯を一望できる素晴らしい眺望が待っている。サラサドウダンの咲く6月や、それらが山頂部で紅葉する秋の登山には多くのハイカーで賑わう。位山との縦走路は、「天空の遊歩道」と呼ばれトレイルラン大会が行われている。
<位山三山の川上岳にまつわる民話>
神代の昔、飛騨の中央の位山と、船山、川上岳にはそれぞれ神様がござった。位山は力強い男神様、その東隣と西隣の船山、川上岳は美しい女神様やった。二人の女神さまは、それぞれ位山の男神様に結婚を申し込んだのやけど、どちらも決めがたく、男神様はこまってまった。
そこで、男神様は二人の女神様に提案したんやと。「満月の晩、月が位山の上にかかったのを合図に、私のところに来てくれた方をお嫁さんにしましょう」二人の女神さまはたいそう張り切った。
満月の晩、東側の船山では早々に月が昇るのが見えた。船山の女神さまはさっそく化粧をはじめたが、なかなか位山に向かっていかん。いらいらいしながら待ってござったと。
一方、西の川上岳からは位山が邪魔してなかなか月が見えなんだ。そわそわしておると、ぽっかり昇ったばかりの月がもう位山の上にかかったように見えたもんで、慌てて男神様の元へ走っていった。
船山の女神様が待ちくたびれておった頃、位山では男神様と川上岳の女神様が手と手を取り合っておったんやさ。悔しがった船山の女神様は、位山との間に無数河川の谷を作って行き来を経ってしまわれた。
位山と川上岳は仲良く肩を並べ、子どもがたくさん生まれた。満月の晩、川上岳を見ると頂上の草原で、神様の子どもが遊ぶ様子が、うさぎが跳ねているように見えたもんで、里では「うさぎのばんばん(馬場)」と呼んだという。
出典:『飛騨の民話-新版日本の民話15-』 江馬三枝子編 未来社
資料
⑥自然-4 川上岳(かおれだけ・一之宮町)
自然-3 五色ケ原・シラビソコース(丹生川町)
コースは出合い小屋を起点に比較的なだらかな谷間を前半は登り後半は下って時計回りに一周して出合い小屋に戻る。一番標高が低い布引滝が1360m、最高地点のシラベ沢口が1640mで高低差は約280m。植生の垂直分布では本来なら山地帯上部でブナ、ミズナラを中心とした夏緑広葉樹が生息するような標高だが、コース全体でシラビソ、オオシラビソ中心の亜高山性の針葉樹林が広がるのは環境の厳しさによる。
このコースでは季節や降水によって満水と枯渇を繰り返す不思議な4つの池、渇水期にもごうごうと水量豊富な沢上沢。湧き水を集め苔生した岩の間を軽やかに流れるシラベ沢など乗鞍岳の恵みが織りなす変化に富んだ水風景が印象的である。
コース最期には轟音を響かせ流れ落ちる横手滝と、伏流水が崖にかかってそのまま滝になる姿が圧倒的な存在感を持つ布引滝が迫力ある景観を見せてくれる。
五色ヶ原の森の開設にあたっては、自然を破壊して利用するのではなく、自然の循環の中で持続的な保護と利用の両立が図られる仕組みを目指し、横浜国立大学の宮脇昭名誉教授の指導のもと、「元手を食いつぶさず、利息で食いつなぐ」をコンセプトに、入念な植生調査やルート調査を行った。また、整備にあたっては偽木やコンクリートなどを使用せず、現地の倒木や石により整備した歩道や、マイクロ水力発電で発電した電気を使用し、汚水はバイオマス浄化槽で処理し、一切外部に排出しないトイレを備えた山小屋など、自然環境への負荷を最小限に留める配慮を行っている。
シラビソコースの出発地点は案内センターから車で30分ほど走った山の中に建つ出合い小屋。途中車止めのゲートを抜けるとその先は一般車両進入禁止で、その日のツアー参加者だけが入山できる五色ヶ原の広大な森が広がる。