2023
城郭-17 古川城(飛騨市) 古川町高野
古川城は、姉小路古川家の居城と伝わる。古川家は基綱・済継・済俊と続くが済俊没後13年で南飛騨の三木氏が古川家の名跡を継承する。なお、この継承は朝廷より正式に認められたものであった。三木氏はその後江馬氏を八日町合戦で打ち破り飛騨を統一するが、羽柴秀吉の命を受け飛騨に侵攻した金森長近に敗れ、飛騨は金森氏の支配するところとなる。
『飛州志』には古来古川二郎、塩屋筑前守秋貞が在城したと記載される。また、金森長近は飛騨討ち入りの際、まず古川城に在城し、その後増島城を築城し移ったと記載される。実際には増島城を築城したのは長近の養子・可重で、長近は高山城を築いて居城としているが、増島城及び城下町(飛騨市古川町壱之町、二之町、三之町)の成立は、古川城及び城下町(古川町上町)からの移転による。増島城の石垣は古川城の石垣を転用した可能性も指摘されている。
古川城は別名を蛤城といい、城内に存在した蛤石に由来する。蛤石は表面にハマグリ型の模様が認められる球状石で、『飛州志』によると金森長近が城内に存在する蛤石に由来して城の呼称を蛤城と改めた。蛤石は元来雌雄2個一対であったが、旱魃の際、雨乞いのために一石を山下の淵(宮川と考えられる)に沈めたところ雨が降った、このため一石となったと記載がある。
なお、蛤石にまつわる伝承として、専勝寺(飛騨市河合町角川)に所在する球状岩は、雨乞いのため沈められた一石が宮川下流で引き上げられたものである。金森長近が蛤石を高山に移そうとしたところ、城から離れるにつれ重くなり運べなくなったため高山への移設を断念し、古川城に戻すことにした結果、今度は城に近づくにつれ軽くなったなどと言い伝えられている。
資料
⑦城郭-17 古川城(飛騨市)
城郭-16 小島城(飛騨市) 古川町杉崎
小島城は、『飛州志』に「国司姉小路家代々居住ノ本城也」とあるように姉小路家の嫡流小島家の代々の居城である。姉小路家は、戦国時代に同じく地方へ土着し戦国大名化した伊勢国北畠氏、土佐国一条氏と共に三国司と並び称される家柄である。
岡村利平の記した『飛州志備考』によると、永仁2年(1294)には、姉小路家の使者が飛騨に下向したとの記録があることから、鎌倉時代には飛騨を領有していたようである。その後南北朝時代、家綱以後は飛騨国司としての飛騨における足跡が明らかとなる。
また、応永18年(1411)には、家綱の弟とも甥とも言われる第4代飛騨国司・尹綱が、広瀬常登入道とともに室町幕府に対して挙兵する(応永飛騨の乱)。
尹綱は小島城に拠って幕府の大軍を迎え撃ったという。幕府は京極高員、小笠原持長、朝倉左右衛門、甲斐小太郎らに尹綱追討を命じ、それぞれの領国である隠岐、出雲、近江、信濃、甲斐、越前などの兵3,500で攻め寄せ、尹綱は討死にしたという。南北朝合一(1392)後、両統迭立反故の動きに不満を抱き、乱の前年(1410)に後亀山法皇が吉野に出奔していることから、尹綱の挙兵はこの出奔に呼応したものといわれている。
応永飛騨の乱の後、姉小路家は小島家、古川家、小鷹利家の三家に分裂する。この三家はそれぞれ北朝より飛騨国司に任じられ、飛騨北部を支配する。古川家の基綱とその子済継は、和歌の名手として都でも知られ、宮中の歌会にも度々参加したという。江戸時代後期の高山の国学者・田中大秀は、姉小路基綱、済継を飛騨文学の祖と位置づけ、その功績を永久に顕彰しようとした。大秀の発願で建立された歌碑が細江歌塚で、姉小路家ゆかりの小島城山麓に建てられている。
戦国時代の飛騨は、飛騨北部を姉小路氏、高原郷を江馬氏、飛騨南部を三木氏が支配する。三木氏は、飛騨守護京極氏の家臣で竹原郷(下呂市)に土着したものである。姉小路氏は飛騨北部に進出する三木氏の圧力を受けることとなる。
天正10年(1582)三木氏は江馬氏を破り飛騨の覇権を手にした(八日町合戦)。この際小島家当主小島時光は、三木氏側として戦い、江馬氏の高原諏訪城から大般若経を奪い、これを小島城下の寿楽寺に納めている。なお、この大般若経は、岐阜県指定文化財となっている。天正13年(1585)、金森氏の飛騨進攻により小島城は落城し、小島氏も滅亡する。
小島城は、高原郷と小島郷を結ぶ神原峠の峠道が古川盆地に開ける交通の要衝に位置し、高原郷からの侵入を防ぐには絶好の立地といえる。
資料
⑦城郭-16 小島城(飛騨市)
高原諏訪城(飛騨市)
江馬氏の勢力圏を示す城館
北飛騨の雄・江馬氏が、古文書等に名が出てくるようになるのは南北朝期からである。応安5年(1372)12月14日の広瀬左近将監宛の「足利将軍家御教書案」に、江馬但馬四郎の名が初見される。それは、山科家領の飛騨江名子等が垣見右衛門蔵人等による押領を、押し止める役を広瀬氏とともに江馬氏に命じるもので、当時すでに、幕府からそのような公務執行を命じられるような信任を受けていた江馬氏の存在が見え、江馬氏と一族が高原郷各地に勢力を張っていたことを示す。
<国史跡江馬氏城館跡>
昭和55年(1980)3月、神岡町殿(現・飛騨市)一帯から和佐保にまたがる「江馬氏下館」「高原諏訪城跡」を中心に、「麻生野城跡」「石神城跡」「寺林城跡」「政元城跡」「土城跡」が、国の史跡指定を受けた。
江馬氏下館跡については、発掘調査が、第1次・昭和50~54年度、第2次・平成6~15年度に行なわれ、史跡整備工事が実施された。
<高原諏訪城跡>
頂上の削平地からは高原郷の多くの集落が一挙に眺望できる。
本丸跡には、「江馬侯城趾」の石碑が建っている。
<高原諏訪城上部機構(仮称)>
高原諏訪城から北の尾根続きで、高原諏訪城より標高で160m高い。
主郭は、北に堅堀と堀切を設けている。
<江馬氏下館跡>
下館の中心部である堀内地区は、飛騨市神岡町殿の字中通りにあり、土井ノ内、土井ノ上、ほりはたの地名が分布している。近くに字馬場もある。
<傘松城跡>
吉田の観音山(標高803m)の山頂にあり、呼び方は「からかさまつじょう」で、別名吉田城とも呼ばれている。
西側の長い尾根筋には堀切と土塁を設けて防御施設を集中させていて、西の古川や高山方面からの敵に備えたもので、16世紀終末ころ改修がなされたとある。その時期は、天正10年(1582)江馬輝盛が三木自綱と戦い、八日町で討死した後、大軍が押し寄せるのに対した時か、天正13年(1585)江馬時政が金森長近勢と戦い滅ぼされた時である。
城の形態としては、16世紀終末期のものである。
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⑦城郭-15 高原諏訪城(飛騨市)
城郭-14 牛臥山城(久々野町) 久々野
飛騨川と無(む)数(す)河(ご)川(がわ)が合流する地点にあり、牛臥山の南端、中腹にある。主郭の北側に2本の堀切があり、西側には小さい曲輪がある。
城郭の西側には「城下(しろした)」姓の家がある。
治承5年(1181)、木曽義仲の飛騨攻めの際の最前線の城であった。義仲は久々野町の切手城、片野町の石光山砦を落して最後に三福寺町の三仏寺城(平景綱の城)を落城させている。
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⑦城郭-14 牛臥山城(久々野町)
城郭-13 笠根城、板殿城(丹生川町) 笠根、板殿
笠根城は標高860m、板殿集落から続く尾根上にある。主郭の平地は東西14m、南北20mほどで、東からの尾根が行きやすく、西側は急斜面になっている。主郭の東側には2本の堀切があり、東側の大堀切は非常に規模が大きい。西側の主郭側の堀切は「三日月堀」とも提唱されている。主郭の北、東、南面には帯曲輪がめぐる。西、南方向には段郭がある。比高は130mもあり、現在登坂道はない。小笠原氏が関係する城と伝わる。
板殿城は笠根城の東方1.3㎞にあり、板殿集落の北にある。切通しから40mあまり登ったところに小さな堀切があり、さらに12m上がると8×6mの狭い平坦面の主郭がある。井戸某が築いたと伝わり、笠根城と関連する。
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⑦城郭-13 笠根城、板殿城(丹生川町)
城郭-12 森ケ城(丹生川町)
『飛騨軍艦』によると天文年間(1532~)に生津信濃守がいて城を構えていた。生津市氏は薩摩の人ともいわれ、森ヶ城の東北の法力地内に屋敷を持ち、生津屋敷の地名がある。生津氏の老臣に大谷蔵人がいて勢力を伸ばしていたが、三木直頼は大谷蔵人をそそのかして生津氏を殺させたが、自身も天文14年(1545)、直頼に打ち取られた。『飛州志』によると永禄年中(1558~1569)、森大隈守がいたといわれる。美濃金山(かねやま)の森氏の一族とされるが、定かではない。大隈守は時代的に考えて三木自綱に攻略されたと考えられる。
森ヶ城は、尾根の先端に位置し、尾根続きを4本の堀切で遮断している。特に内側の堀切は幅15m、深さ8mと規模も大きく、連続堀切となっている。主郭は、東西30m、南北20mの楕円形で、高い切岸を持つ。主郭の北西に二段の小規模な曲輪があり、その先にまた堀切がある。主郭より北東に下る尾根には小規模な曲輪が並ぶ。畝状空堀群があるが、畝の数も少なく、長さも短く比較的小規模である。畝状空堀群があることから、森ヶ城は戦国末期に改修されたと推定されている。
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⑦城郭-12 森ケ城(丹生川町)
城郭-11 岩井城 高山市岩井町西保木
岩井城は松洞山の西方の尾根端に築かれている。天然の要害で、平坦部の総長は約80m。主郭の標高は868mで細長い尾根上にある。北側、南側は自然の急斜面になっている。西と東に堀切があり、主郭の北面には腰曲輪がある。また小規模のいくつかの曲輪が東西にある。
南北朝時代、楠和田氏の後裔と称した和田新右衛門尉正武の城と伝わる。正武は室町時代初期頃、滝・生井・岩井の土豪となり、天文の頃(1532~1555)に三木直頼に滅ぼされたか、帰農したか詳細はわからない。城のある岩井町の地名に和田、和田向、和田ヶ洞があり、和田を名乗る家がある。
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⑦城郭-11 岩井城
城郭-10 五味原城(丹生川町) 折敷地五味原
「八日町の合戦」があった国府町八日町から荒城川を12㎞ほどさかのぼった丹生川町折敷地五味原に、地元では通称「しろやま」と呼ばれる山がある。急な山道を登り詰めると山頂には二重堀切、腰曲輪、主郭などがある。
必要最小限の防備しか持たないことから、短期間でつくられ、その直後に廃絶された可能性が高いと考えられている。荒城川上流部で峠の向こうの高原郷を防御する位置にあることから、江馬氏の築いたものであるとされている。
反江馬勢力が南から高原郷に進入するには、十三墓峠以外にトヤ峠がある。この城の背後にあるトヤ峠を越えると、江馬氏の領地高原郷に至る。八日町の合戦を前に江馬氏はトヤ峠の守りを固めた上で、十三墓峠から軍勢を率いて八日町へ進入したと推定されている。
<江馬輝盛寄進の鰐口>
五味原城と2.1㎞離れた折敷地住吉神社(丹生川町折敷地)に鰐口があり、銘に「江馬常陸介輝盛 寄進 奉掛住吉神社社頭 永禄三庚申」とあり、永禄3年(1560)江馬輝盛の支配がこの地に及んでいたことがわかる。
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⑦城郭-10 五味原城(丹生川町)
城郭-9 梨打城(国府町)
『飛州志』には「同郷(荒城郡)八日町村ニアリ同郡諏訪ノ城主江馬常陸守輝盛持分」と簡単に述べている。飛騨北部の高原郷に本拠を置く江馬氏が、荒城郷を支配し始めたのは意外に古く、15世紀末頃にはすでに支配していたと推定される。
延徳3年(1491)5月、室町幕府は守護勢力によって侵害されている北野社領飛騨国荒城郷を、江馬氏に回復を命じたとされる。このような経緯を経て、戦国時代に入ると江馬氏単独支配の地域へと変化していくのである。
16世紀になっても江馬氏が荒城郷を支配しており、天正10年(1582)小島城を攻めた江馬輝盛が荒木(城)に退いたことが判明する。
この頃すでに梨打城は江馬輝盛によって築城され、江馬氏の宿敵三木氏の領土と隣接する最前線の城として使用されていた。
天正10年(1582)10月27日、江馬輝盛は三木・小島連合軍と戦い、戦死してしまう。翌日には本拠高原諏訪城も小島氏の攻撃によって落城しており、このとき梨打城も落城したと考えられている。
伝承では小島軍が尾根続きから攻めて梨打城が落城したため、江馬軍が大敗したと伝えており、防御態勢は北側の尾根続きを警戒した縄張りとなっていた。
曲輪の周囲に土塁を巡らすケースは飛騨では非常に珍しく、この他は尾崎城にしか残っていない。富山市の論田山城は江馬氏の築城と推定され、やはり主要曲輪の周囲に低い土塁を巡らせている。
所在地 国府町八日町、漆垣内
標 高 749m
比 高 230m
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⑦城郭-9 梨打城(国府町)
城郭-8 広瀬城(国府町)
広瀬城は、北飛騨における三木氏の重要な城であった。山林として長い間保存されてきたので遺構の残りがよい。広瀬城はJR飛騨国府駅の南方約1㎞にあって、山上にある規模の大きな山城である。
『飛州志』によると、「田中城旧称広瀬城」という。天文年間(1532~1555)、広瀬左近将監利治によって築城されたといわれている。広瀬氏歴代の居城であったが、城代に広瀬氏の家臣田中与左衛門(田中筑前守)を置いたので田中城ともいわれている。天正11年(1583)三木氏によって滅ぼされた後は三木氏の居城となる。その後、天正13年(1585)金森氏の攻撃で落城した。
平成12年の縄張調査によると本丸には竪堀、堀切、曲輪、土塁、二の丸には、曲輪、竪堀、三の丸には、竪堀、堀切、南出丸には、曲輪、堀切、北出丸には、大手道、曲輪などが見られる。また調馬場跡といわれるところには、竪堀、横堀、曲輪などが見られる。
『飛州志城図』に示す屋敷は、主郭から瓜巣川に向かう山の突出部を均して居を構えたようで、現在は山林となっている。城関係の小字名を拾うと、「まとば」、「木戸口」、「水番屋敷」などがある。
城主広瀬氏は、もと広瀬郷の豪族で、本姓を藤原氏といったが、その系図は明らかではない。早くから広瀬郷を中心として、古川盆地に勢力を張った。天正11年(1583)広瀬山城守宗域は、松倉城主三木自綱に滅ぼされ、三木氏の配下に帰した。
天正13年(1585)金森長近が飛騨へ侵入するに及び三木氏が居城していたこの広瀬城は落ち、自綱は逃げて京都に赴き、三木氏は、以後廃絶した。現在、城の北方向から登って曲輪下の道沿いに、田中筑前守の墓がある。碑面には、「永正13年(1516)8月13日、田中筑前守御霊神」と刻んである。
所在地 高山市国府町名張字上城山、瓜巣字井口
築城時期 永正年間(1504~1521)頃、天文年間(1532~1555)頃
主な遺構 曲輪 堀切 土塁 竪堀 畝状空堀群
標高 622.3m
資料
⑦城郭-8 広瀬城(国府町)
城郭-7 高堂城(国府町)
『飛州志』に「廣瀬瓜巣村ニ在リ利仁將軍ノ後裔廣瀬左近將監利治築之子孫廣瀬山城守宗城兵庫頭宗直居之天正年中三木大和守自綱ニ戦ヒ負テ宗城終ニ討死ス其子宗直ハ城ヲ落テ行方ヲ知ラズト云フ自是三木持分トナル城地圖地理部ニ載ス」とある。平坦な主郭があり、北側・東側・南側に小さい曲輪がいくつかある。広瀬郷に土着した広瀬氏の居城と考えられている。
その後三木氏に広瀬氏は滅ぼされて、高堂城、広瀬城は三木氏の支配下になった。金森氏による飛騨攻めの際、三木氏は広瀬城で迎え撃ったという。