2018
宗猷寺
宗猷寺(そうゆうじ)は岐阜県高山市にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は真龍山。金森可重の菩提寺であり、山岡鉄舟ゆかりの寺院としても知られる。聖観音菩薩が祀られており、飛騨三十三観音霊場6番札所となっている。
寛永9年(1632年)に飛騨高山城主金森可重の菩提寺としてその嗣子の金森重頼と弟の金森重勝を開基とし、安国寺から妙心寺92世南叟宗安禅師を招いて建立された。創建時は大平山新安国寺と称していたが、後に山号を金森重頼の法名、寺号を金森重勝の法名に因んで真龍山宗猷寺と改めた。飛騨国は臨済宗の寺院が少なく、高山の市街地においては時代による若干の変遷はあるもののほぼ唯一の臨済宗の寺院であった。江戸時代後期には山岡鉄舟の実父である小野高福が飛騨郡代として高山陣屋に赴任しており、山岡鉄舟は宗猷寺で禅を学んだと伝えられている。
高山市指定の文化財として、文政7年(1824年)建造の本堂と享保年間建立の鐘楼があるほか、史跡として山岡鉄舟父母の墓がある。庭園は高山市の名勝に指定されており、寺の裏山にある木地師の集団墓地は高山市指定の民俗文化財となっている。
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053_060_宗猷寺
雲龍寺
もとは720年に創建された妙観寺(みょうかんじ)という寺院でしたが衰退し、1395年頃、曹洞宗雲龍寺として再建されました。
本能寺の変で戦死した飛騨国主 金森長近(かなもりながちか)の長男 長則(ながのり)の菩提寺であり、1590年頃に長近が建物を修営したと伝わっています。
雲龍寺鐘楼門(うんりょうじしょうろうもん)は、1695年、高山城破却に伴い、二之丸にあった「黄雲閣(こううんかく)」という建物を下げ渡され、これが鐘楼門になったと伝わっています(雲龍寺記)。
(引用:http://kankou.city.takayama.lg.jp/2000002/2000026/2001292.html)

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054_061_雲龍寺
勝久寺
寺伝によると、円通は長享元年(1487)片野に円通堂を建て、西本願寺派越中八尾の聞名寺の末寺であった、その後小八賀の葦屋へ移り、高山町三町へ移転し正徳二年(1712)」に寺号を勝久寺とし、昭和5年現在地に改築。
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055_062_勝久寺
大雄寺
もとは吉城郡上広瀬村(現高山市国府町)にありましたが、1586年に金森長近によって、現在の地に移され、浄土宗の寺となりました。大雄寺山門(市指定文化財・日本遺産)は、「飛騨匠の祖」として崇敬を集める飛騨権守(ひだごんのかみ)・藤原宗安(ふじわらむねやす)の直系とされ、優れた彫刻を特徴とした水間相模(みずまさがみ)の建築。大雄寺鐘堂(県指定文化財・日本遺産)は、1689年2月に建てられた飛騨地方最古の鐘楼で、江戸時代前期より活躍する大工の家系、松田家 松田又兵衛(まつだまたべえ)作。(引用:http://kankou.city.takayama.lg.jp/2000002/2000026/2001294.html)
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056_063_大雄寺
上野東照宮
上野東照宮は1627年創建の東京都台東区上野公園に鎮座する神社です。 東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社で、日光や久能山の他、全国に数多くございます。 当宮は出世、勝利、健康長寿に特に御利益があるとされ信仰されています。 金色殿(社殿)などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期建築として国の重要文化財に指定されており、国内はもとより、海外からも多くの方がお参りされます。 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。 1646年(正保3年)には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。
現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言われています。この造営替えに際し約250基の灯籠が全国の大名から競うように奉納されました。 幕末には寛永寺の伽藍や子院の多くが消失する上野戦争が勃発しましたが、上野東照宮には火の手が及びませんでした。関東大震災にも倒れず、第二次世界大戦では社殿のすぐ裏に爆弾が投下されましたが幸いにも不発弾で社殿の倒壊は免れました。 明治時代には神仏分離令の為境内の五重塔を寛永寺に譲渡(現在は東京都の管理)するなど、江戸時代と比べ境内地は縮小されましたが、江戸初期に建立された社殿が数々の困難を乗り越え現存することは奇跡的で、強運な神君の御遺徳の賜物と言われています。
春は牡丹・桜の名所として、秋は紅葉、ダリア展、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の方で大変賑わい、出世、勝利、健康長寿などの祈願成就を願う方が後を絶ちません。
かつて江戸の人々の家康公への信仰の対象であったこの御宮は、江戸時代と変わらぬ姿で今もなお多くの方に心の安らぎを与えています。
御祭神:徳川家康公 徳川吉宗公 徳川慶喜公 (上野東照宮公式ページ http://www.uenotoshogu.com/より)
#左甚五郎
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051_058_上野東照宮
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身。飛鳥を経て、和銅3(710)年平城遷都に伴い、藤原不比等によって現在地に移転され、興福寺と名付けられた。以降、藤原氏の氏寺として大いに繁栄した。奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めた。治承4(1180)年の平重衡の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げるが、その後、享保2年(1717)の火災によって、伽藍の西半分を失った。境内には光明皇后創建とされる五重塔(室町時代再建・国宝)、北円堂(鎌倉時代再建・国宝)の国宝建築物をはじめ、南円堂(江戸時代再建・重要文化財)、国宝館などが立っている法相宗の大本山。また多くの仏教彫刻の名品を所蔵している。(世界遺産)
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050_057_興福寺
薬師寺
薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
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049_056_薬師寺
龍應山西明寺
龍應山西明寺の由来は寺伝によると、平安時代の初期に当たる承和元年(834年)のある日、三修上人(慈勝上人)が、琵琶湖の西岸を歩いていると、突如として琵琶湖の東方の彼方より、紫雲が現れまぶしい光が射しました。この雲や光を見た上人は「この光の源をたずねれば、きっとすばらしい霊地があり、修行中の私に何か悟らしめて、重大な使命が下されるに違いない」との霊感に打たれました。そしてその光明を目指して湖東の山中に分け入ると、一筋の光明を放つ池があったのです。上人は「このような有難いまぶしいご光明を放たれるのには、何か事情があるのでしょうか。この清浄な霊地から沸き出づる泉を通しての光明は、何を暗示しているのでしょうか。どうかご教示願いたい」と池に向かって一心に祈念なされました。やがて、不思議な事に薬師如来の尊像が現れ、その後に日光菩薩、月光菩薩、続いて十二神将が現れました。三修上人に帰依していた仁明天皇は、この不思議な出来事を聞くと、この地に勅願寺として、お寺を造るように命じられました。薬師如来が放った光が、仁明天皇がいらっしゃった京都の宮中に向かって、西方を明るく照らした事で、「西明寺」と名付けられました。また、西明寺の山号の由来は、西明寺のある場所が琵琶湖を中心として、東に位置していることから、東西南北の四方を護る天の四神(東・・・青龍、西・・・白虎、南・・・朱雀、北・・・玄武)の内の青龍が護り、人々の願いに応じる寺院故に「龍應山」と名付けられました。その後、西明寺は「国家鎮護と五穀豊穣、病気平癒」等を祈願する祈願道場として、また僧侶を育成する修行道場として、寺領二千石と山林数町歩が与えられ、十七の諸堂と僧坊三百を有する大伽藍となりました。また、琵琶湖の西岸の延暦寺が勢力を伸ばし始めた頃に天台宗になり、延暦寺の中心道場である根本中堂のご本尊の薬師如来が、琵琶湖を向いて安置されているので、薬師如来どうしが対面する様に西明寺のご本尊が延暦寺の方向に向いて安置されました。爾来、西明寺の薬師如来は湖東の薬師如来と呼ばれる様になりました。源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられています。
戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当時も焼き打ちをしましたが、幸に国宝一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現在しています。
江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興し現在に至っています。
本堂(瑠璃殿)・・・国宝
鎌倉時代の初期飛騨の匠が建立した純和様建築で釘を使用していない。
屋根は桧皮葺きで、蟇股(かえるまた)、格子模様等鎌倉の様式が保存されている。
三重塔・・・国宝
鎌倉時代後期飛騨の匠が建立した純和様建築で本堂と同じく釘を使用していない。
屋根は桧皮葺きであり、総桧の建物である。
初層内部の壁画は巨勢派の画家が画いたもので堂内一面に、法華経の図解、大日如来の脇侍仏三十二菩薩、宝相華等が、純度の高い岩絵の具で極彩色に画かれていて鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものであるといわれている。(塔の高さ23.7m)
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048_055_西明寺
寿楽寺廃寺跡
天文学者「行心」飛驒へ
はるか昔、飛鳥時代に新羅の僧・行(こう)心(じん)(幸甚)が飛驒へ流された。朱(しゅ)鳥(ちょう)元年(六八六)、大(おお)津(つの)皇子(みこ)が謀反を起こし、それに関与した罪だという。行心は死罪を免じられ、飛驒の国にあった寺院に流されたと『日本書紀』に記されている。大津皇子は天武天皇の第三皇子で、文武に優れた人物であった。異母兄弟の草壁皇子が皇太子であるのに対し、大津皇子は太政大臣となってまわりから期待されていた。しかし天武天皇の死後、大津皇子は謀反の疑いで捕えられて自害させられてしまう。
この事件に関わった僧行心はどんな人であったのか。飛鳥時代、朝廷は朝鮮半島などから天文学者を呼び「天文(てんもん)卜筮(ぼくぜい)」という天文現象の読み解きをさせた。それは古代中国の天文学で天球の中心にいる天帝の意思や地上の出来事が天文現象に現れるのだという考えである。天文学者は何の予兆なのかを天皇のみに奏上する役目であった。
行心は子隆観を伴って配流された。その後十六年経って隆観は免罪されて都へ戻ったが、行心の生死については明らかではない。
行心が流された飛驒国伽藍はどこにあったのか、長い間わからなかった。しかし、八賀晋(故)の長年の研究により、その寺は飛騨市古川町太江にあった「寿楽寺廃寺」だと判明している。
寿楽寺跡地は道路改良に伴い、岐阜県教育文化財団が平成十~十二・十五年度の四次にわたり発掘。結果、講堂基壇跡と回廊遺構が発見された。奈良時代より前の飛鳥時代に、既に飛驒には古代寺院があったことになる。飛驒匠がこの頃都へ宮殿などを造りに行き、優れた技術を持ち帰っていたことは、大きな歴史的事実である。
寿楽寺廃寺 じゅらくじはいじ 所在地 岐阜県飛騨市古川町太江左近 よしきぐんふるかわちょうたいえさこん
立地環境 国府・古川盆地にあり、宮川支流の太江川右岸に位置する。現在、富山方面へ抜けるルートは国道41号(数河峠越え)であるが、40年程前は太江川沿いを神岡方面へ向かう道「神原峠」が主流であった。寿楽寺は太江川沿いの一段高い平地にあり、日当たりの良い好所に位置する。標高515m。
寿楽寺に関する文献
1.大塚章「寿楽寺廃寺出土の軒丸瓦について」『岐阜県博物館調査研究報告・第15号』平成6年
2.東海埋蔵文化財研究会岐阜大会資料集『古代仏教東へ ― 寺と窯 ― 寺院編』実行委員会事務局 平成4年
3.八賀晋「飛騨の古墳と古代寺院」『古代の飛騨 ― その先進性を問う ―』飛騨国府シンポジウム資料 1988
遺跡の概要 過去に発掘調査されたことがない。現在、曹洞宗寿楽寺があり、遺跡名となっているが地名から左近廃寺とされることもある。太江川沿いに神岡町へ向かう街道(神原峠)が通っているが、寺跡は、街道より一段高い段丘上に遺存していると思われる。
出土した軒丸瓦 現在までに4種類の軒丸瓦が知られる。
外縁重圏文の単弁蓮華文瓦 ①単弁8弁蓮華文瓦 蓮子1+4
②単弁8弁蓮華文瓦 蓮子1+8
③-1、2 単弁6弁忍冬文(パルメット)瓦
④単弁8弁蓮華文瓦(内部に菱形の子葉を配する)
①、②は1本造り、7世紀中葉
③忍冬(パルメット)文様を有する。直径18~19㎝で、①、②より大きめ、①、②の時期に後続する。野中寺(大阪府羽曳野市)、尾張元興寺(愛知県名古屋市)と同型。
④楔形の間弁を配する。
<参考文献>国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』140頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
寿楽寺(じゅらくじ)は岐阜県飛騨市古川町にある曹洞宗の寺院。山号は南光山。本尊は鎌倉時代作の薬師如来で中部四十九薬師霊場38番札所。また、如意輪観音が奉祀されており、飛騨三十三観音霊場13番札所となっている。
古川町杉崎にあった宮谷寺の塔頭であったと伝わり、応永5年(1399年)の祈祷札にその名がみえる。飛騨国の支配者であった金森可重の母が慶長5年(1600年)に戦勝祈願を行って験があったため堂宇を整備した。その縁があって金森家の位牌所の一つとなっている。元禄2年(1689年)、素玄寺8世の古林道宣が現在地に移して再興している。
本堂は宝暦5年(1756年)、観音堂は明治12年(1879年)、鐘楼は昭和59年(1984年)のものである。寺宝として平安時代の大般若経を所蔵しており、岐阜県指定の文化財となっている。(編集中)
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046_053_飛騨の古代寺院(寿楽寺廃寺跡)
杉崎廃寺
飛騨の古代寺院・杉崎廃寺
杉崎廃寺
岐阜県飛騨市古川町杉崎字あわら
杉崎廃寺は宮川右岸の微高地上に位置し、水田の中に整然と並ぶ礎石群と塔心礎の存在が古くから知られていた。
これまでの発掘調査により、7世紀末葉に創建された白鳳時代の寺院跡であることが明らかになった。小規模ながら主要堂塔を備え、金(こん)堂(どう)の東に塔を配し、中門・金堂・講堂が直線上に並ぶ伽(が)藍(らん)配置は他に例をみない。金堂や講堂・鐘楼の礎石は創建当時の位置を保ち、伽藍全体の遺構がよく残されている点でも比類がない。
伽藍中枢部の全面に敷き詰められた玉(たま)石(いし)敷(じき)は、全国でも初めての発見であり、その荘厳さは飛鳥(あすか)の宮殿遺構を彷彿させる。
建物の礎石は、すべて火を受けた痕跡があり、8世紀の末、一度に焼失したと推測される。瓦は金堂と塔の一部に使われたが、屋根が檜(ひ)皮(わだ)葺(ぶき)であったことも杉崎廃寺の特徴といえる。
出土遺物には浄(じょう)瓶(びょう)(水差)・獣(じゅう)足(そく)火(か)舎(しゃ)(香炉)などの供養具、丸瓦・平瓦などの瓦類、須(す)恵(え)器(き)を主とする食器類、それに建築部材を中心とした木製品などがある。出土した郡(ぐん)符(ぷ)木(もっ)簡(かん)には『和(わ)名(みょう)抄(しょう)』にみえる郷名の飽(あく)見(み)郷(ごう)が記されており、寺院の分布が郷単位であったことが推定される。 飛騨市教育委員会資料から
杉崎廃寺 すぎさきはいじ
所在地 岐阜県吉城郡古川町大字杉崎字あわら地内 ふるかわちょうおおあざすぎさき
調査年 1991~1995年
調査主体 古川町教育委員会
立地環境 飛騨古川盆地の北西に位置し、飛騨の風光明媚な水田地帯にある。標高480mにあり、地下水位の高い「あわら」と呼ばれる湿地に水田が営まれてきた。
発見遺構 中門・金堂・塔・講堂・鐘楼の礎石建物5棟、伽藍を区画する掘立柱塀、伽藍の北西に南北溝(寺域の西を限る排水施設)、僧房
発見遺物 伽藍中枢部を中心に土器と瓦類が出土。土器では、須恵器が主で、坏・椀・蓋を中心とする食器類と、壺・甕などの貯蔵容器類を主体とし、長頸瓶・水瓶・三足火舎などの仏器類もある。焼失した講堂の基壇上面から灯明皿、「見寺」と墨書された土器が出土し、杉崎廃寺の廃絶年代を示す資料となった。9世紀初頭の年代が想定されている。なお、創建年代を示す資料には、講堂基壇中と掘立柱塀柱穴から出土した岩崎41号窯式期比定資料、柱穴から出土した平城宮Ⅰに比定される土師器坏Aがある。
瓦類は金堂、塔の基壇回りを中心に出土、軒瓦は存在しない。全体的に出土量は少なく部分的な使用が考えられている。出土瓦の供給窯は、盆地の南西に位置する中原田古窯である。平瓦は、粘土板桶巻作りによるもの。
木簡は南北溝の多数の建築部材とともに、1点が出土した。荒城郡の郷名が推定できる資料である。・符 飽カ ・急□ 「飽」は、飛騨国荒城郡飽見郷を指すものと考えられ、郡符木簡の可能性をもつ。他の木製品は1,000点を超え、杓子、箸などの食事用具、蓋板などの容器、えぶり、田下駄、木槌、ヘラなどの農工具、籌木等多種に及ぶ。建築部材では桧皮がまとまって出土し、最終時の伽藍内の建物が桧皮葺きであったことが判明した。
年代 創建年代7世紀末、廃絶年代9世紀
出典文献 1.河合英夫・島田敏男「飛騨の伽藍 ― 杉崎廃寺の調査 ―」『月刊文化財』3月号1995 第一法規出版㈱
2.杉崎廃寺現地説明会資料1996 古川町教育委員会
遺跡の概要 杉崎廃寺は、平安時代後期から織豊時代にかけて存続した宮谷寺の跡といわれていたが平成3~5年の調査によって白鳳寺院であることが判明した。
伽藍や主要堂塔は、全体的に小規模であるが、非常によくまとまっており、また伽藍全体がこれほど良好な状態で遺存した例は少ない。伽藍配置は、全体としてやや変則的な形式をとるが、いわゆる法起寺式であることが判明した。特に金堂や講堂、鐘楼の礎石は、創建時の状態を良好に保ち、塔や中門についても根石の存在によって本来の位置が復元できるなど、高い価値を有している。また、伽藍地全面が丸い人頭大の河原石で敷き詰められ、荘厳な印象を与えている。伽藍地全面に石敷を施した例は、同時代の寺院跡には類例がなく、飛鳥の宮殿遺跡を思い浮かべる。
<規模>伽藍中枢部・東西37.5×南北35.8m 中門・桁行5.7 梁行3m 金堂・桁行7.8×梁行6m 塔・各面4.2×4.2m 講堂・桁行12.6×梁行9m 鐘楼・桁行4.5×梁間3.3m
<中門>礎石及び根石のレベルが、伽藍内の石敷上面レベルと大差なく、基壇は基壇化粧のない低い土壇状。桁行3間、梁間2間の八脚門。
<金堂>南を正面とする東西棟建物で、基壇、礎石ともほぼ完存。基壇は掘り込み地業を伴う版築による乱石積基壇。外周に石敷面より一段高い犬走りを巡らせる二重基壇。桁行3間、梁行2間の身舎の4面に廂が取り付く3間4面の形式。
<塔>金堂の東に位置する。基壇は金堂と同様、掘り込み地業を伴う乱石積の二重基壇。花崗岩製の礎石が15個現存。心礎は大きく南東に移動している。
<講堂>金堂の背面に位置する。基壇縁に自然石を並べただけの低い基壇であるが、掘り込み地業と版築によって築成される。桁行4間、梁行2間の身舎の南北二面に廂をもつ両廂付き建物である。特記すべきことに、建物内の中央2間分に、棟筋と身舎側筋の少し内側に、礎石状の石が置かれ、床束を支える束石、または須弥壇の束石と考えられている。
<鐘楼>西を正面とする南北棟建物で、基壇、礎石ともに完存している。基壇は見切石を並べただけの低いものである。桁行3間、梁間2間で、楼形式であったかどうかは不明。
<南北溝>伽藍の区画施設である、西面の掘立柱塀に沿って南に続き、南面の塀を通りこし、溝に並行して塀も延びる。この結果、中門の南には伽藍の外画施設と南門の存在が想定された。
<僧房関連施設>伽藍の北側に大きく2時期の変遷を示す、掘立柱建物で構成された僧房及び関連施設がある。伽藍中枢部とは仕切塀によって区画されていた。僧房は桁行4間、梁行2間の大形の掘立柱建物2棟を基本とする東西棟が一列に並んで構成され、最近2回の建替えが行なわれ、建物内部は4室ほどに区画されていたと推定される。
僧房の西側には桁行4間、梁行2間の南北棟が建つ。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』135~136頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
杉崎廃寺は古川盆地の北西隅杉崎地区に位置している。平成3年から平成7年にかけて行われた発掘調査により、やや変則的であるが法起寺式伽藍配置の白鳳寺院であることが判明した。
伽藍は小規模ながら、中門・金堂・塔・講堂・鐘楼などの主要堂塔を備えている。伽藍の内部に施設した石敷は、同時代の他の寺院跡には見られない杉崎廃寺独特のものであり、飛鳥の宮殿遺跡を彷彿させるものである。
また、伽藍の西で検出された南北溝から、多数の木製品と郡符木簡が発見された。この資料は全国的に見ても極めて貴重であり、律令国家の行政の末端を知るうえで価値が高い。
瓦類は、金堂および塔の基壇回りを中心に出土したが、軒瓦は1点も出土しなかった。
塔心礎は花崗岩製で、不正の長方形をなし、礎面に直径70cmほどの円形柱座をつくり、中央に直径32cm、深さ12cmほどの舎利孔をあけている。(編集中)
資料集
047_054_飛騨の古代寺院(杉崎廃寺跡)
日枝神社
遠く永治元年(1141)、時の飛騨守時輔朝臣が、ある日片野山中で狩りに出て、奇瑞のことがあったので、その城をかまえていた石光山(今の高山市片野地内)に近江の日吉大神を勧請して、城の鎮護としたのがはじまりである。その後、四代目景家の時、養和元年(1181)正月、源義仲の部将手塚光盛に攻められ、利あらずして敗亡、社殿も兵火にかかって消失したが、幸いにして御霊体は災禍をまぬがれ無事奉安することができ、里人によって社殿は再興され、片野村の産土神として奉祀されていた。(今、この地を「元山王」とよんでいる。)幾多の年月を経て天正13年(1585)、金森長近父子が豊臣秀吉の命によって飛騨へ入国、諸将を平らげて国内を統一し、国守に封ぜられて、同14年、城を天神山(今の城山)に築いた。金森氏の祖は近江国で、代々日枝大神の崇敬が厚かったことなどから、慶長10年(1605)、片野より現在の地へ奉遷して城の鎮護神とし、社地と社殿を寄進造営、社僧松樹院を置いて片野、高山南半分の産土神に定められた。かくして金森氏歴代100余年間、城主の崇敬あつく度々の社殿の改築修造が行われてきた。今に残る社殿の棟木、神輿等に見る国守の紋所梅鉢はじめ金森長近公愛用の陣羽織及び刀等にもそれを伺うことができる。元禄5年(1692)、城主移封となり、徳川幕府の直轄となってからも、歴代の代官・郡代の尊崇あつく、度々社殿の修築、参詣があった。明治以後は郷社を経て昭和に県社となり、一般に『山王さま』と親しまれ、氏子数2700戸はじめ高山市民の尊崇を集めている。(編集中)